見出し画像

(続) デザイナー田中清司と過ごした時間

伝説のシューズデザイナー。
その光と影。


ファッション業界の方で、亡き田中清司と仕事をした方は多いです。
当時の田中清司、タナカユニバーサル社は世界中で大ヒットするシューズブランドを展開していましたので、日本でも多くのメーカーと別注(コラボレーション)商品を作っていましたし、有名なセレクトショップに商品がたくさんありました。

田中清司、タナカユニバーサル社が製造するシューズだけでも、年間約10万足。
その他に、自社の展示会、世界中の展示会への出展、海外工場や海外ブランドとのミーティング、シューズの素材を探す為の展示会や現地への訪問などなど。
私が出会った頃の義兄は、1年のうち3ヶ月ほどしか日本にいなかったです。

この頃、昔から悩んでいた時差の苦しみが、毎日酷くなっていく。
対処する方法は、睡眠薬しかなかった。
海外の滞在が多い以上、睡眠薬も海外の強いものばかりを服用していた。

昔から田中清司をよく知っている方はご存知かと思いますが、義兄は何というか、かなりの天才肌でした。
常識的な枠は持ち合わせておらず、話を誇張することがたくさんありました。
しかし、デザインや色彩や素材を表現する言葉は極めて心に響き、義兄の経験談は面白く、初めて聞く話ばかりで、鮮明に記憶に残りました。


German Trainer and Ciger

世界的デザイナー、闇への歩み。

LUDWIG REITER(ルーディックライター)や、maccheronian(マカロニアン)、CEBO(セボ)、TSTが世界中のファッション業界でトップを保っていた頃、タナカユニバーサル社を支えてきた実の母が亡くなり、ここからタナカユニバーサル社と田中清司の凋落が始まります。

タナカユニバーサル社は、田中亀商店を営んでいた両親の大きなバックアップにより設立した会社です。
その基本は、家業としてファミリーが支えるという仕組みがありました。
時差の苦しみから生まれた精神の不調が表面化すると、彼を療養させ、家族が会社の運営を担いました。(私もその1人です)
しかし彼は療養中でも、毎日何度も会社に電話を入れ、ミーティングをし、毎日何度も海外の工場やコネクション先に連絡を入れ、1日に数十枚のデザインを描きます。毎日、毎日です。
天才が故の、クリエイションへの強迫観念。
湧き出るデザインを現実化したいという血の出るような想いは、常識も現実も何も無く、もちろん他人の存在は眼中にはありませんでした。
結局最後まで、時差が原因で始まった双極性障害という心の病いからは抜け出せなかったのです。

双極性障害の方が家族にいる方はご理解いただけると思いますが、隣で支えあう家族が常に攻撃にさらされます。
言葉だけではなく暴力もありますし、警察沙汰にもなります。様々な公共施設や役所の方たちとの共働で、何とかその病の症状を緩和させながら、平和な日常を確保できるか?
これが、とても困難です。
最終的に支える家族は私の家族以外いなくなりますが、それと同時に、彼の生活を支える私への攻撃が激しくなる日々が増えました。

彼の暴力が原因で警察沙汰にもなりましたし、彼の趣味でもあった訴訟を起こされた方も何人かいます。

このように、時には激しく家族を責めつけ、他人や社員をなじり、また、話を誇張し他人を騙す事もある一方で、
病が発症していない平和な時間の時には、寄り添って生活を助けている人への感謝や、私や私の妻子への数えきれない感謝の言葉と深い愛情を見せることもありました。

私たち家族は、彼との平和な時間を確保するために、彼の要求を出来るだけ聞きながら、主治医との連絡を欠かさず、
田中清司を再び世界のシューズデザイナーに戻れるように、と頑張ってきました。

German Trainer et Ciger

独り、孤独に、逝きました。


しかし最晩年は、双極性障害から生まれる言動のコントロールを失ってしまい、それに加えて記憶障害や激しい妄想も併発。
もはや自分自身を保つ時間も少なくなり、普段の生活すら困難になりました。

そんな時に近づいて来るのは、不安定な彼の心を読み、彼をコントロールすることで自分に大きな利益が生まれると考える他人です。
義兄の周りに、よく分からない人達が増えました。

彼らは、亡き田中清司の過去の側面しか知らないので、彼の誇張された話しを聞き、一儲けが出来ると信用してしまい、関係が悪くなり最後には決まって訴訟沙汰となります。

おかしな人物が近寄って来たり、自分からも近づいて行ったりする事が増え、その度に、田中清司は心の病を発症していて、言っていることは本人にも理解できていない。気を付けてください。
そう言って、何度も何度もその方たちには伝えていましたが、このような方達は、義兄の誇張した話から、本来はそこに無いものを見てしまい、本来はそこに無いものを計算してしまう。
そして、本来そこに無かったものを返せ、とか期待した分の保証をしろ、などと言ってきます。
そして、亡き田中清司の趣味の訴訟。。。
ずっとその繰り返しでした。
本当にうんざりするほど、この手の人たちが現れました。
義兄をサポートするための専門家や、私たち家族を遠ざけようとする方も何人も現れました。結局ある人のコントロール下に置かれた義兄は、驚くことに、周りにいる専門家やサポートしている者、家族を遠ざけてしまいました。

私も含め家族が阻止してきましたが、努力虚しく、最後には自分自身を助ける者全てを、自分自身で遠ざけ、独りで、家で、亡くなりました。

Valuable overseas factories

義兄が逝く間際の、私との会話。

少し前までは、物事を聡明に考えることが出来る期間があり、その度に家に呼ばれて指示を受け、ディスカッションをしていました。
デザイン、素材、PR、セールスなどの話しから、会社全体のリスクヘッジの話や、資本関係の無い兄弟会社の設立と、その活動方法など。
これまでのヨーロッパ市場のコネクションの活かし方。
兄として私達家族がどのように生きていくべきか、というプライベートの話しなど。
その戦略や家族の行く道について、現実的で明晰で、真っ当な計画を考え抜いていました。
何より、自分自身が生み出した家族関係の悪化に対しては、反省したので関係を改善してプラス方向にもっていきたいと、涙を浮かべて話してくれました。
そして、自分の抱えている病についての自己分析。
いつも書いていたノートのメモを見ながら、多くの話をすることができました。

義兄が亡くなった時の、海外工場の反応

別記事にも記載しましたが、各海外工場は規模が小さいころから、亡き田中清司と20年以上パートナーシップを組み仕事をしていました。
スロバキア工場は、義兄と同じ年齢のオーナーで、兄弟のような関係性です。
ルーマニア工場は、義兄が療養中、ロシアや南欧のブランドへデザインの流用をしていましたが、義兄は後にそれを許して再度パートナーとして仕事をしてきました。また、オーナーの息子は、田中清司に憧れて日本に留学後、デザインの仕事をしています。
チェコ工場のオーナーは、田中清司からの仕事のおかげで大きくなったという恩を持っていて、田中清司の多くの希望を叶えてきました。
私とスロバキア工場のオーナーは、深い悲しみを互いに共有しました。
その他の工場は、義兄が残した多くのものを流用していますし、彼ら自身は流用について悪い事とは考えてないようです。

最後に、

今回、続編としてここまで記事にしましたが、
義弟としては、まだまだ書きたいことがたくさんあります。
偉大だった伝説のシューズデザイナー、田中清司を独りで死なせてしまったことは、常に心に引っ掛かりのような、穴が開いたような、言い表せない何かが居座っています。
スロバキア工場のオーナーに、たくさんの話を聞いてもらったので少し楽になりましたが、居座っているなにかは消えてくれないようです。
この記事以降の続編は、自分自身への整理のための記事という意味合いが大きくなると思います。
ここまで、お付き合いくださり、ありがとうございました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?