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【掌編】『待合室にて』

 ほんの少し前にこんな光景があったな。病院の待合室に由香里と二人で座っていると時間が少し戻った気がした。

 その日、夕食が終わった少し後に妻が腹痛を訴えた。少し休んでいたが、どうもただの一過性の腹痛とは違うようだった。額に脂汗が滲んで光っていた。車を出そうにも、もう酒を飲んでいた。

 気が動転していたのは確かだった。それでも由香里に電話したのは冷静に考えた結果だった。すぐに来てくれて妻の様子を伺うと素早く最寄りの救急外来のある病院へ連絡を入れた。それから妻と僕を車に乗せると病院へ向かったのだ。診察が終わるのを待つ今は長椅子の隣に座りぼんやり前を見ながら肩や腕を摩っている。見慣れていたはずのラフな普段着が今は新鮮に映る。由香里は元カノだ。そして相変わらず会社の同僚だった。

「ありがとう。助かった」
「大したことないといいけど」
 

 僕の親父が癌の手術をした時の待合室でも由香里は隣に座っていた。もう三年もたつのについ先月か先々月ぐらいに思える。そして、親父の葬儀でいろいろ手伝ってくれたのは昨日のように思えた。
 

「ごめん。もう遅いし後は僕が」
「ううん。いいの。もうちょっと居るわ」
 

 妻と結婚してすぐに同年代で飲み仲間だった総務の女性を家に招いた事があった。この街にやってきて間もない妻にいろいろ教えて欲しいと頼んだのだ。

「いいわよ。それじゃあ由香里ちゃんも呼んでいい?」
 もちろん彼女は、僕らが前に付き合っていたのを知っている。目が妖しく光っている。
「もちろん。どうぞ」
 平静を装って僕は答えた。

 二人とも来てくれて、妻は手料理でもてなした。由香里は終始、口数が少なかった。二人が帰った後、片付けをしながら妻がぽつりと言った言葉を忘れない。ストレートに言わないのが妻の棘の出し方なのだった。

「あのこ……きれいなこね」
 

 僕は、田舎の高校を出ると東京の大学に籍を置いて遊び惚けた。そのまま、なし崩しに就職すると、仕事に追われ何度目かの失恋をして、ふと気が付けば酷く病んでいた。どうしてここに居なくちゃならないんだっけ……などど言いながら、ふらふら郷里に帰って来たのだった。

 由香里は、僕のちょうど一回り年下の二十五才。僕の再就職先に少し遅れて新卒で入社してきた。僕にはもったいないぐらいのしっかり者だった。年の差も感じたことが無い。お父さんを早くに亡くして苦労したらしかった。

 それでも僕は、あっさりフラれてしまった。彼女が出来ると安心してしまい、調子に乗ってバカをやらかす悪い癖が治っていなかった。今でも普通に接してくれるのは、放って置くと危ないからと見るに見兼ねてのことなのかも知れない。現に、妻だって東京時代に付き合っていた元カノだった。押しかけ女房というヤツだ。様子が心配だから見に行ってあげるという理由でやってきて、そのまま居ついてしまった。僕から言わせてもらうと妻の方がよっぽど心配なのだが……結局、似た者同士なのはお互いわかっているから一緒にいて楽なのだ。
 

 妻の診察が終わり、中に呼ばれる。疲れからきた消化不良だろうとのことだった。慣れない土地で苦労してるのかも知れなかった。念のため一晩入院することになり、その準備を由香里は手際よく進めてくれた。
 

 ひと段落して妻は眠り、待合室で一服していると由香里が言った。
「羨ましいな。奥さんが」
「え?」
「前に家に招かれたことがあったでしょ? あなたが席を外した時に馴れ初めを聞いたのよ」
「へえ……」
「いったん別れたけど、その時にこう言われたんだって。『いつでも戻っておいで』って」

 僕は黙るしかなかった。持っていた缶コーヒーを飲み干す。

「私には言ってくれなかった……」

 コーヒー吹きそうなのを懸命にこらえた。由香里は笑った。

「そういうとこよ」
「何が?」

「いいの、べつに」

 由香里を駐車場まで送った。一人っ子の僕なのに気が付くと小姑みたいなのがまた一人増えたみたいだ。

 いいか、べつに。


 


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