見出し画像

【雑記】あの日にあったこと 3.11

2011年3月11日の午後だった。青森県の太平洋岸にある港町のオフィスの二階にいた。とある機器開発プロジェクトの一員としてPCの液晶モニターに向き合っていた。僕は、そこで組込みプログラムを書いていたのだった。

突然の揺れとともに辺りを伺った。その頃、中程度の地震が度々あったのでいつも通りやり過ごそうとした。しかし、横揺れはいきなり大きくなった。あ、これはやばい奴だとすぐに理解した。立ち上がる余裕もなく座ったままで目の前の液晶モニターを押さえる。そこら中の機材が倒れたりしているが最早なにも出来ない。窓の外を見る。コンクリート製の電柱がまるでゴム製ですかというぐらいにビヨンビヨンと揺れ、電線はユッサユッサと跳ね回っていた。

尋常ではない事が起こっている。船酔いになりそうな大きく周期の長い横揺れは、それでも収束に向かっているようだった。そう思った一瞬後にまた新たな揺れが始まった(ような気がした)。そこからまた同じぐらいの時間、揺れが続いたが漸く治まった。長かった。

停電していたのに気が付いた。もとから、もう仕事を続ける気力など無かったのだが、PCが起動できなければ、もうできる仕事は何もなかった。とりあえず、上の指示があるまで待機となった。

余震が三十分程度の間隔で五回ぐらいあった。普段であれば、大騒ぎするような結構大きな揺れだった。その度に、二階のオフィスから駆け降りて外の駐車場へ避難した。

経験上、あの揺れ方は震源が近くではないと思った。とするならば、遠くの震源近くの人々にとってはもっと甚大な影響があったのではないかと胸騒ぎがした。家族と連絡を取ろうにも既に携帯電話の回線は繋がらなかった。

そうしているうちに携帯でテレビニュースを見ていた者たちが悲鳴を上げ始めた。小さな画面を覗かせてもらうと、とてつもない津波が映っていた。そして今いる場所が津波の警戒をするべき場所として挙がっているとの情報もあった。(後にそこから数百メートル先まで津波が到達していたことを知る)そして、やっと各自退避の指示があった。明日は休みで、明後日以降は状況次第ということで解散した。

車に乗り込み帰宅する。家までのルートは、海岸通りは津波による浸水で閉鎖区間があるとの情報から、そこを避けて帰る。停電により信号が停止していたため、要所で恐る恐る運転した。特に大きな交差点はひやひやした。対向車の動きを伺いながら、それでも譲り合って曲がった。

家に帰ると妻と中学生だった娘と息子が既に帰っていた。とりあえずみんな無事で良かった。

カーナビのテレビでニュース情報を得た。また、USB端子もあったので携帯電話の充電もなんとかなった。しかし、ここでガソリンの無駄使いは避けておいた方が賢明だった事に後に気づく。その後数週間、ガソリンは貴重品となり手に入れるのに苦労する事となるからだ。それより早く解消したが、食料品も同様だった。

ガスコンロがあったので煮炊きはなんとかなった。ローソクの明かりで家族四人夕食を取った。まだまだ寒い時期なのに暖房が無いので、みんなさっさと布団に入って寝た。記憶が定かではないが電気が復旧したのは二日後ぐらいだった。

子供たちの友達も多く被災した。中学生の息子は友達の家の片付けを手伝うのだと言って出かけた。教科書も何もかも流された。それよりも、親にバレるとまずいような、隠し持っていたゲーム等を何とか探し出そうとして焦っていたらしい。不謹慎とは思わなかった。失われたものが何であれ、皆それぞれ必死だったのだ。無事見つかったかどうか残念ながら聞き洩らした。

テレビのニュースで、この町にも甚大な被害が発生したことを知る。港湾地区の工場などが津波で破壊されていた。家から数キロ先の見慣れた道路に大きな船が打ち上げられる様を見る。その脇を小さな自動車が走り、直後に津波が迫っている映像も見た。多分、この町に住むほとんどの人がそれを見て記憶しただろうと思う。あの車に乗っていた人が犠牲になったんだとの噂もあったが本当かどうかわからない。「あの車の人」で会話が成り立つのだった。

あの日起きたことを忘れないように。
記憶が残っているうちに書き残しておこうと思った。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?