LGBTPZNという単語を知っているか

※「相手の同意をほぼ得られない存在を他のLGBTに並べて語るのはよろしくない」という意見がちらほら見られたので追記しました。

2018/04/12追記。LGBTPZNについての主な質問を記事にしてまとめましたので、こちらからアクセスしていただければありがたいです。

牧村氏の記事を読んだ方はこの記事では何の知見も得られないと思うので、この記事よりもokimochi-philia氏の『LGBTPZNは何を破壊しているのか、あるいは「やってしまわないための連帯」の(不)可能性』を読むことをお勧めします。


LGBTPZNという単語

LGBTという単語に関しては正しさは抜きにして認知が広まった。しかしながら性的マイノリティに対する認知は本当に広まったのだろうか?
そんな問題を提起する単語が2016年に現れたのだ。それが「LGBTPZN」である。※これは限定的にPZN三つを加えろという主張ではない。上記のQ&Aを参照のこと。


レズビアンのL
ゲイのG
バイセクシャルのB
トランスジェンダーのT
これに
ペドフィリア(小児性愛)のP
ズーフィリア(動物性愛)のZ
ネクロフィリア(死体性愛)のN
を付け足したものだ。
要するに既存のLGBTに加え幼児、動物、死体に性的興奮を覚える人たちを含めた単語である。他の色々なサイトでも言及されているが、これはアクロニム(頭字語)ではなく、多様な「性」を広い概念で捉えたシンボルである。
#YouAreTheEighthAlphabet のタグをTwitterなどで参照してほしい。


では、公式見解としてあったサイト(今は現存していない)のLGBTPZNという言葉の説明を見てみよう。

現在は、LGBTPZNはアクロニムではなく、多様な性を象徴するシンボルであると考えられています。引用元:LGBTPZN画像ポータル

「多様な性を受け入れる」というものしか正式な見解はない。つまりここから我々は考えなければならない。
ある人は気に入らない者を叩く道具として、ある人は馬鹿にする道具として、ある人は見つめ直す機会として使った。
自分はLGBTを見つめ直すきっかけ、性とは何かを考え直すための道具として用いてみようと思う。

LGBTPZNは既存の「LGBT観」「性的マイノリティ観」に疑問を投げかけた。

LGBTのうち、LGBは性的志向と言われるものだ。どの性別が好きかという話。Tは自らの性が身体と一致しないことをあらわす。しかしここにPZNという性的嗜好、俗に言う性癖を入れた。つまり「性」を拡大させてみたのだ。「君の想定に性的嗜好は入っているのかい?」と語りかけるように。
とても物議を醸した。

今から書くLGBTとPZNの性質的な違いが、それぞれに対する感じ方の差を生むものかどうかはわかりませんが、「とりあえず性質的な違いはあるんじゃね?」って思ったということで読んでもらえたらと思います。ぼくが考え至った両者の性質的な違いは、該当者と対象者の間の力関係です。「該当者」とは、LGBTPZNに該当する人間。「対象者」とは、それらの性的対象とされる者のことを指します。(レズにとっての女性、ゲイにとっての男性、ペドにとっての幼児・小児)「力関係」って表現が適切かどうかはちょっと微妙やと思ってるんですが、他にしっくりくる言葉がなかったので、とりあえずこういう表現にしました。簡単に言うと、性的な関係になるにおいて、LGBTの場合は双方の合意が前提で成立するけど、PZNの場合はそもそも合意が前提とならない(ことが多い)ということです。例えばホモレズ(LGBT側)ですが、基本的には、ホモなら相手の男との、レズなら相手の女との合意を成立させることで、性的な関係になりえます。恋人同士になれます。ここにおいて、ホモレズとその相手の間に根本的な力関係の差はありません。ところが、ペドズーネクロの場合は、そうじゃない。ペドフィリアと子供、ズーフィリアと動物、ネクロフィリアと死体、それぞれの間には、明らかに力関係の差があります。ネクロフィリアは、死体に許可をとって欲望を満たすわけではありませんよね?実際に行動に至るか否かは別としても、性的対象が明らかに自分よりも弱いわけです。ペドに関しては、対象となる子供に選択の権利はありますが、明らかに弱者です。そんなところに、LGBTとPZNの差を感じました。そして、弱者に対して(のみ)興奮を覚えるというところに、嫌悪感や怖さを感じてしまうのかな、と思わなくもないという話です。引用元:けいが文章を書く場所

これはあるブログにあったLGBTPZNに対する批判文だ。これ以外にも探せばあるが一番わかりやすい文なので引用させていただいた。
この文は「力関係が対等でない為、合意がない為、LGBTとPZNに明らかな違いがあり、PZNに嫌悪感を抱く」というものだ。言語によっての事前合意についての話はひとまずおいておいて、PZNの話になると大抵この「対等でない」という部分の話になる。しかし考えてみてほしい。本当にPZN以外は力関係が対等なのだろうか?合意があるのだろうか?性的嗜好を一括りにして一方的にラベル付けをしていないだろうか?
強姦事件だって痴漢だって無理矢理言いよることだって合意はない。PZN以外は全て力関係が対等とは言えず、個人によってそれは異なる。もしもその理由で差別ができるのなら性的マイノリティに対する差別は全て正当なものになる。PZNだから差別して良いというのは明らかにおかしいだろう。そもそも○○だから差別してもいいという考え方を変えるべきなのではないか。

/*ここから追記部分*/

「相手の同意をほぼ得られない存在を他のLGBTに並べて語るのはよろしくない」という意見が散見される。「多様な性」を語るにあたって、相手の同意を得られないものを包括するのはタブーなのだろうか?苦悩し、社会から追い出されないように必死に隠す人が実在するのにその人達は「犯罪者」と断罪されるだけされ、その人達の苦悩からは目を逸らすのか?なにもLGBTPZNは「PZNの権利を確保する必要があるため云々」と言いたいわけではない。(勿論LGBTPZN主義者にはそういった人たちもいるが、それはLGBTPZNという概念が規定するものではない。)「色々な人が実在し、そしてその存在だけでも認める必要がある。」というものが、私個人のLGBTPZNの概念の把握内容である。

/*追記部分終わり*/

非合法だろうと存在だけは認めるべきである。それは受け入れることと同義である。存在するならどうすればいいかを考えなければならない。一方的に犯罪だからと処罰するのは簡単だがそれは差別に他ならない。

そしてLGBTPZNが問いかけているのはPZNの是非ではない。また「○○がないからLGBTはダメ」というものでもない。
「このように皆があまり考えていなかったり嫌悪感を抱くものが出てきたとき、例外として差別するならば多様な性のあり方なんて夢のまた夢なのではないか?」というものだ。
反社会的、犯罪的とまで言われたPを態々LGBTにつなげた意味はそこにある。

同意があるなし等の具体例はまた別の機会に考えたいと思う。
今回一番考えるべきなのは「本当に自分達は多様な性を受け入れようとしているのだろうか?」という部分である。
嫌悪感を抱かないことと受け入れることは全く違い、自分は別にPZNに嫌悪感を抱いても良いと思っている。嫌いなものは嫌いであり、性嫌悪だって女性嫌悪だって男性嫌悪だって、実在するのだから仕方がない。「嫌いなものは嫌い」で良い。例外や特例など作らなくて良い。
存在自体の否定は「受け入れ拒否」である。嫌いかどうかとは別問題である。PZNは現在犯罪に繋がりやすい。しかしながら実際にいるのだ。性的マイノリティは存在し、その存在は認められるのに、なぜPZNの存在は容認できるかという話になるのだろうか?自分の「性」に当てはめ、そこに当てはまらないから排除するのか?それは本当の意味の「性的マイノリティに対する差別撤廃」には絶対に繋がらない。なぜならラインを引いてしまえば「本当の性的マイノリティ」というよくわからない概念ができてしまい、肝心の「寄り添う」という部分までいかない人が少なからず出てきてしまうからだ。今のままでは差別はなくなるどころか助長される。

もう一度我々は「性」という概念、そして問題を見つめ直す必要がある。マイノリティもマジョリティも関係なく、「人を受け入れるとは何か」というとても簡単な、しかし中々難しい問題をだ。

「人には色々な要素で他の人と違う部分がある。しかしそれは蔑視する理由にはならないし、茶化す理由にもならない」


#コラム #エッセイ #性的マイノリティ #LGBT
#LGBTPZN  #YouAreTheEighthAlphabet

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