父への手紙 26 医者の話だけは信じる
父だけではなく、どんな人も「身内の言うことは聞きたくない」という洞察を持っているのではないかと思う。
ご多分に漏れず、父も家族の言うことにはなかなか耳を貸さない。でも、それはいたって普通の振る舞いだと思う。
自分が子供で親の言うことがどれだけ正しくとも、言われたその時には「そんなわけがない」と耳を貸さない事が多かった。
最終的に親の言うことは、経験則もあり、自分が大人になって同じような境遇に合うと、「あの時聞いた言葉は本当だったのだ」ということに気づく。
ただ、子供の頃に耳を貸せなかった親の知識も、同期の仲間が同じことを話しているのを聞いたり、歳の近い兄弟や従兄弟から同じ話を聞くと信用していしまうし、ましてやそれが弁護士や予備校の教師、弁護士や医者などの専門家から聞けば、本当だと思って素直に聞き入れることが出来る。
父は、誰の言うことにも耳を貸さなかったものの、医者の言うことだけはしっかり聞いていた。
寧ろ、医者から処方されて治らないと「あのやぶ医者め」と言う人も多い中で、医者は絶対的な姿勢を通していた。
処方箋も言われた通り言われたタイミングで全部なくなる迄飲み続ける。
「まじめか!」
家にずっといて外部の人と接していないと、風呂に入ることも忘れる父だった。
母に風呂に入るかシャワーを浴びるかを勧められても、浴びないなんてことは常だった。
そんな父でも、ある時突然、自分からシャワーを浴びてしっかりと髪を整えて、常識的な服を着て出かけることがある。
歯医者である。
医者に会う時は、しっかりと正装で病院へ向かう。
恐らく「医者」だけの存在では、「シャワーを浴びて正装する」までの行動をとらせる力はない。
そう、「歯科衛生士」の力だ。
歯科衛生士の多くは女性、少なくとも私を担当してくれた歯科衛生士に男性はいなかっただけだが、「歯科衛生士に不潔な自分を見せられない」。
これが消費者の洞察だ。
人を動かすには、いくつかの要因があるが、「邪な考え」は「人を動かす」。
これは、世界共通の要因だ。
仮に歯科衛生士と特別な仲ではなくとも、自分が美化しているものや、本能的に欲するものの前では、人の理性は言うことを聞かなくなるのである。
父への手紙
親父は、元来、勉強気質な人で、自称学者肌だった。
学者になるという「行動」には出ることができない「行動下手」というのが親父の本質。
執筆に関しても同じで、執筆の勉強をして、どんどん質が上がっていったものの、それを出版社が主催するコンテストに応募するでもなく、出版社に売り込むことでもなく、また究極的に自分の書籍を売るために出版社を立ち上げてしまう、なんていう行動にも出るわけはない。
これは、もったいない。父には、「背中を押す人が必要」「父がドライブをかけられる発射台まで父というロケットを運ぶ運搬トラックなる人」が必要で、一旦、発射台に乗ってしまえば、あとは自分の感性で色々な星に飛んでいくことが出来るのが父だ。母も全く同じことを言っていた。
解せないのは、能力があることには、発射台まで連れていく誰かが必要なのに、なぜ競馬だけは自力でドライブをかけられたのだろう、という疑問が残る。
そう、「邪な考えは人を動かす」。
最初は、100円をかけて、当たるか当たらないかで初めて見た。
あたりも外れもあり、結局トントンで終了。
そんな日も続いたかもしれない。
しかし、ある時、大穴を当ててしまった。
黙っていればいいのに、あまりの嬉しさに、万馬券を当てたことを口にしてしまう。
「じゃ、今日は焼きにでも?」なんて打診すると、「定期代に消えた」と宣う。
本当かどうかも分からないが、もう手元にお金はないようなことを匂わす。
そんなことが、定期的に起きてしまえば、更に競馬のドライブがかかってしまう。
ただの週末の楽しみが、「大金を手に入れられるかもしれない」というギャンブル欲へと変貌してしまい、最終的に競馬に行けなくなるという末路を辿ってしまった。
欲を出すとどこかで人間は崩れていってしまう。
「邪」は、「歯科衛生士の前で恥ずかしい姿は見せられない」と思わせる程度で十分。
そうでなければ、人生も会社も破滅の一途をたどるという教えをありがとう。
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