見出し画像

進学塾と通信教育

 小学4年の頃から塾に通い始めた。

 それまでは、進研ゼミなるものをやっていた記憶がある。

 今でもあるかもしれないが、当時は「赤ペン先生」と呼ばれ、添削された自分の回答を読み返すのが楽しみだった。

 兄も小学生の頃から塾に通っていたのだが、それが私に塾と言う場所の興味を沸かせた。

 読書が好きだった私は、とにかく勉強をすることが好きだった。

 ただ、ちょっと語弊がある。

 勉強している時に、新しいことを知った時の「へぇ~そうなんだ」という感覚が好きなのであって、テストされるのは大嫌いだった。

 だから、いつもテストは悪かった。
 
 私の勉強は、記憶するために勉強をしていないというのが正しい表現かもしれない。

 恐らく誰でも学んだ後、一晩寝てしまうと勉強した内容の8割方忘れる人は多いと思う。

 私は、「繰り返していくうちに結果的に記憶に残る」知識が好きなのであって、明日の試験のために記憶しなければという勉強は本当に嫌いである。

 だから、塾の費用を捻出してくれている親には、大変申し訳ないことをしたと思っている。

 小4の頃に始めた塾は、地元の図書館と同じ建物にあった小さな3教室くらいの塾で、単体の塾だった。

 進学校に進むための塾ではなく、学校での成績を上位に保つための塾というのが正確だろう。

 ここに通っていた誰一人として、私立中学に進学した人はいなかったし、塾内でも私立へ進学するためのクラスを展開もしていなかった。

 「公文式」の章でも述べたが、学習塾と公文式の違いは、「受け身で教えて貰う教室」か「自分で学習をする教室」かの違いである。

 極端に言えば、プリントさえあれば、公文式も教室に行く必要はない。

 ただ行くと静かな環境の中で、予備校の自習質にいるかのように自主的に勉強をする。

 進むペースも自分で決められるため、公文の先生は、本当の意味で、学習を支援してくれていることに専念しているため、学生も強いプレッシャーを受けることなく進めることが出来る。

 学習塾は、「教える」ところなので、生徒は受け身になりがち。難しい問いの解き方を教えてくれる時は目から鱗ではあるものの、塾によっては、塾の先生からのプレッシャーを受けることもあるかもしれない。

 最近地元の学習塾の授業中に廊下を通り過ぎたのが、その先生の話し方が宗教染みていて不気味に思えた。

 公文式も内容のわりに結構月謝は高めかなと思う反面、学習塾と比較すれば安い。

 学習塾や予備校は、本人の勉強の仕方が、しっかりと内容を記憶に残せる勉強の仕方を体得していない場合は、全くアウトプットに反映されないので、費やしたお金は何だったのだろうと徒労に終わることも覚悟しなければならない。

 もはや、いい大学を卒業して大企業に就職して安泰の時代でもないので、学習塾は、受験突破以前に付加価値を提供していくことで、社会人になってから創造性を発揮できるような人材を育てる「塾」の位置づけも考えてみてもいいような気はする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?