軽トラックで売りに来ていた焼鳥屋
当時、軽トラの販売車と言えば、「屋台のラーメン」か「屋台の焼鳥屋」くらいなものだろう。
令和の世界にあるようなフードトラックは見かけない時代である。
この軽トラの焼鳥屋で売られている焼鳥が、私が生涯で初めて食べた焼鳥である。焼鳥を焼き、秘伝のたれにつけて、寡黙な焼鳥屋のおじさんが黙って焼鳥を手渡してくれる。
何とも言えない、昭和の風景である。
この焼鳥屋のおじさんは、マラソンの瀬古利彦監督に似ている。
私の中だけで瀬古さんと呼んでいた。
この屋台では、焼鳥は「たれ」で売られている。
正直、焼鳥には「たれ」しかないと思っていた。
焼鳥に「しお」があるのを知ったのは、アメリカでビール営業をしていた時、焼鳥居酒屋へ飲み営業にお邪魔した時である。
そこで焼鳥が「たれ」と「しお」を選べるようになっていたことが、私の中では新鮮だった。
瀬古さんの焼鳥屋台以来、食べてきた焼鳥は全て「たれ」で、渡米してからビール営業に辿り着くまでのおよそ7~8年くらいは、焼鳥自体を一度も食べていなかった。
焼鳥と言えば「瀬古」、それが私の焼鳥観であり、もし自分が焼鳥居酒屋を開店するなら、間違いなく「焼鳥瀬古」にする。
グルメ雑誌のインタビューを受けたら、「瀬古さんという方が作られたお店なのですか」と必ず聞かれることを期待している。
日本に一時帰国した時は、「瀬古さん」に焼鳥を買いに行くことがなかった。完全帰国したばかりの頃、中学の同期に偶然会ったことがある。
そこで同期に「瀬古さん」の焼鳥がまだ商いをしているのかを聞いてみた。
何でも、運転中、人を避けた時に、事故に遭い、帰らぬ人となってしまったとのことだ。
私に「焼鳥とは何か」を教えてくれた人物であり、正直、焼鳥を注文する時のメニューの反復と焼鳥を手渡してくれる時の「ありがとうございます」以外の言葉を聞いたことがない。
それくらい朴訥な方だった。毎年、箱根駅伝を見て瀬古さんの声が聞こえると、妙に焼鳥を食べたくなる。
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