からっぽ男の憂鬱・2020/07/23
今日は普通の日記を書くことにした。
タイトルの「からっぽ男」というのは、いとうせいこう氏からの引用だ。
以前もこの単語を使っていたが、改めて使って日記記事を書くことにしてみる。
俺は自分自身のことを「からっぽ男」だと思っている。
何分「学」がない。
無防備のまま、ドン・キホーテがごとく、旅に出ようとしている。
中途半端なのですよ、何事も。
やりたいことは明確なんです。
この間呟いたけど、「人生の指針」がやっと見えて、決まった。
「俺は『面白いもの』を書きたい」
この一点だけを胸に抱いて、やっていけばいいんだと、齢39を超えてようやく見えた。
その『面白いもの』の実態が何かは、まだ決めてないし、どの表現媒体を使うか、決めきっていないのだけど。
同人誌での刊行でいいから、書きたいと思っていることがある。
以前から、この構想は何回か書いたことがあるんだけど。
『「ドストエフスキー作品をガルシア=マルケスが三人姉妹をモチーフに書いたものをカート・ヴォネガットがシナリオ化してロバート・アルトマンが演出したモンティ・パイソンが演じる3幕構成の芝居」を書きたい。上演出来なくて良い、同人誌出版して手元におきたい。』
これ、やりたいんですよ。
全然勉強が足りてないから、これからでも研鑽は積むんだけど。
大人数芝居&実現不可くらい長い戯曲として書きたい。
脳内キャスティングは決まっているんです。
「高校時代の演劇部員・全員」
何故かというと、もしあの大人数で、大人数であることの意味を持つ大長編を書いたら……と言うのが切り取れなくて。それにあのメンバーをさばき切りたいという、俺の過去へのこだわりを、過去への執着への完全なる脱却のためにも。
構想にある言葉を翻訳すると……
「『強い物語』を『長大なマジック・リアリズム』で『チェーホフ作品』に枠組みを借りて『絶妙な語り口』で語る『人間絵巻』を『パイソネスク(徹底的にバカバカしい作風)』でやりたい」
もう何年も思っていたことなんだけど、いかんせん「持病」が邪魔して書かせてくれなかった。
でも、今は違う。
自分で作ろうと思えばいくらでも時間は作れる。
やろうと思えば、ね。
あとは、「やりたい」のかどうか。
書きたいのかどうか。
それにかかっていると思う。
とにかく勉強量が足りない。
やると決めたことだから、やる。
この戯曲の冒頭には、序文として、こう書こうと思っている。
「この戯曲は、過去に上演されていないという事実に基づいた、『実在しない上演記録』であり、よって、上演不可能な戯曲の形を取った戯れ言である」
からっぽ男の「からっぽ」が埋まる過程で書き上げられれば、と思う。
からっぽ男の憂鬱を鎮める薬だ。
どうして「劇作」は、こうも麻薬・禁断症状が出るものなのだろう。
今、その禁断症状が末期に来ているから、やれることをやれるだけやってみる。
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