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支離滅裂な日記で良いじゃないか(からっぽ男の憂鬱 2024/04/22)

4月も下旬である。
相変わらず、心と体がすれ違う日々を送っている。
今年はなんとか毎日noteの更新を、と思っているのだけれど、スタートすら切れずにいた。
何とか今日は書けそうなので、書き進めてみる。

とは言え。
面白い話題もあまりないのも事実なのである。

今年は、文学フリマに出店したい、という目標が、フワフワとしつつ、持っている。
何を書いて、何をどう出版したいのか、ハッキリしていない。
自分の本分である劇作を書きたいのか、新たな職業の助走としての小説執筆なのか、統合失調症である身の上話をまとめたエッセイ集にするのか。

劇作は、まず書かなければいけないものがある。
約束があり、それを破っては絶対にいけないのである。
それは自分自身のレゾンデートルである、演劇制作のためのものだ。
具体的に、来年、2025年に公演を打つための台本を少しずつ作る、というものだ。
今年1年をかけて準備を重ねて、来年に臨むのだ。

小説書きは、自分自身の命題だと思っている。
ここ数年言い続けている「嘘まみれのニセ自伝」を目指している。
カート・ヴォネガットとジョン・アーヴィングの影響丸出しで書きたいのだ。
長くて面白い一代記。
ひとりの人生の追体験をやってみたい。
モデルを俺自身に置いて、あることないことを混ぜて書きたい。

もしくは俺のライフワークとして考えている「切ないペンギン村」物語。
ソートーン・ワイルダーの『わが町』に代表される「スモールタウン」ものを、大きなクロニクルとして書きたい。念頭にあるのはガルシア=マルケスの『百年の孤独』であり、書籍としての『ポータブル・フォークナー』だ。映画で言えばロバート・アルトマンの『ナッシュビル』や『ショート・カッツ』、P.T.アンダーソンの『ブギーナイツ』や『マグノリア』の世界観。

今まで、俺は優しい書き味のものしか書いてきていない。
それは、「パイソニアン」の自分としては不本意である。
ドス黒いユーモアにまみれた、「意識の流れ」を意識したモンタージュ・タペストリーをやらなくてはいけないと思っている。
本来はそれを戯曲でやりたかった。
だが、たぶん俺の生き方では上演できないまま終わると思っている。
別に「上演されない戯曲」で一向に構わないし、それを書こうかな、と思っている。
だけど、「原作」として、「企画書」として、小説として書いてみても良いかな、と思っている。
この発想は、映画監督の岩井俊二氏のものがヒントになっている。映画『スワロウテイル』の小説版の後書きに、「自分は企画書の代わりに小説を書く」という旨の文章が残っている。
小説と戯曲のカップリングで本を出しても面白かろうと思うわけである。

短くていいから「物語」を書き残したい。語りたい。
今まで残してきたものの多くは「抽象画」が多い。高校時代の恩師に「君は詩人だね」と言われたような、詩的な、ポエム的な作品が多い。
でも、本来は「嘘まみれのニセ自伝」に代表されるような、物語世界を紡ぎたい。

その予行練習として4年ほど前に、「吉井和哉についての二、三の事柄」というエッセイシリーズを書いた。13話まで書いて、行き詰まり、今は「Re-Mix」バージョンとして、過去に書いたものに手を入れて、思いついたときに書いている。

今はまだ2本しか書いていないし、うち1本は書いたものを更にRemixしたものだ。
4年前より、多少は文章力は上がったと信じて、書き直そうと思う。
それを溜めて、「薄い本」にまとめてもいいかな、と思う。

戯曲は用いるエネルギーと情報量の割に、原稿枚数は少ない。
それだけ濃密な文章群なのだが、好みが分かれる上に「読みづらい」「売れない」と言われる。
まあ、事実だ。
上演を前提に書いたとしたら、60分~90分ものが多いだろう。長くてもせいぜい2幕180分辺りまでが限度だろう。
でも、上演しないことを前提で書くなら、書き放題書きまくるのもアリだな、と思う。
俺の敬愛する劇作家で音楽家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏は「長い」と良く言われる。まあ、コンスタントに180分芝居を書いているからなんだけど、氏の一番長い戯曲『祈りと怪物 ~ウィルヴィルの三姉妹~』は3幕、上演時間休憩込みで4時間10分、DVDでも225分ある。戯曲本には更に上演時に削られた15分ほどのエピソードがひとつある。

俺はこの『祈りと怪物』に惚れている。
自分の目標のひとつだ。
今の時点ではケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の最高傑作ではない、とは思っている。
長くて短い、エピソードが多くて語り足りない話だからだ。
でも、この作品執筆同時、氏のTwitter上での発言には、俺には雷鳴のごとく響いた。
「ガルシア=マルケスが『カラマーゾフの兄弟』のような物語を三姉妹に置き換えて書いたらどうなるか、というのが発想のきっかけだった」
という言葉だ。
作家は、「ノーベル賞作家と世界最高峰の文学を混ぜて、演劇史に残る作品で「Remix」する、という、俺にとっては「狂気の沙汰」とも取れる発想を抱いていいんだ」ということだ。

だったら、俺にとっての「POPの原体験」である「ペンギン村」を舞台に、おもしろてやがて哀しき物語を紡いで良いんじゃないか、と思ったのだ。
そのために、去年2023年の正月に突然手に入ったお金でドストエフスキー一式を買い求めた。「世界で一番強い物語を書く作家」と思ったからだ。
ヴォネガットは以前から全部持っている。ジョン・アーヴィングも買いそろえた。ここにディケンズやその影響下にある作家たちを混ぜ込んでもいい。日本だと誰だろう。少なくとも『吉里吉里人』や『万延元年のフットボール』、中上健次や阿部和重、古川日出夫も基礎として読むべきだろう。
まさか作者がいなくなるとは思っていなかったから、「ペンギン村」をすべて揃えるのは時間がかかりそうだが。

「切ないペンギン村」は一度書いている。
演劇集団LGBTI東京のクリスマス公演のために書いた『もみの木は見ている』がそれだ。
ちょっと設定に無理があったり、書き足りないと思っている部分も多いが、その当時の己をすべてを突っ込んだので愛着のある芝居だ。

この文章を書いている今、思いついたが、これを小説化してみるのも手かな、と思った。
俺の「いい友達」である河田唱子女史に「小説書いた?」と何遍となく聞かれ、お茶を濁し続けた俺としては、原作戯曲があるなら、小説は書けるんじゃなかろうか。
やるだけやってみるか。

そもそもの。
この「からっぽ男の憂鬱」は日記の積み重ねをするために付けたシリーズタイトルだ。
こうやって日記を書きながら、思いつくことが出来るのは有益だ、と、今更ながら、思った。

「統合失調症の作家」を名乗っていて、「統合失調症」は進んでも、「作家」が泊まっているようじゃ「物書き」の風上にも置けないので、書こう。

何だか、スッキリした。
note様々だ。

と。
支離滅裂な文章になった日記だが。
唐突にぶった切って終わってみる。
思いつきは、また思いつくだろう。
お付き合いいただければ、これ幸い。

んじゃ。

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