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「ねえ、歌唄いさん」

 一日の始まりに通り過ぎる、勤め先の出版社への向かう道すがら、ベンチとブランコが申し訳程度に置かれている公園がある。そこにポツンと立っている、ギターを抱えた男の人に声をかける。

 「ねえ、歌唄いさん」

彼は普段は表情を顔に出さない。いつも、まるで哲学者かのように浮かない顔をして、ギターをつま弾いている。それは時にチューニングだったり、私の知らない曲だったり、たまに「禁じられた遊び」なんて古い映画の曲だったりする。
 私が声をかけても、話し込んだりなんかしない。彼はただギターを弾くだけ。言葉はなくても、私はこの光景を眺めている時間が好きだ。そして、時間になり、「いってきます」と言うと、歌唄いさんは1曲歌ってくれるのだ。それは晴れても太陽が陰っていても、毎日公園に立ちつづける歌唄いさんが「俺はここにいる」と大声で主張するようにも感じる。歌声だけで世界を塗り替える、そう叫んでいるにも感じる。
今は、雨雲が立ちこめる、朝7時20分。今朝の曲は「Raindrops Keep Fallin' on My Head」邦題は「雨に濡れても」。

 私の好きな映画の主題歌だ。空は曇っていても、雨粒が頭に落ちてきても、今日は良い一日になりそうだ。

 私は忙しく働いている。
 こんなご時世でも、いや、こんなご時世だからこそ、出版物が求められていると思っている。私の勤める会社は決して大きくはない、音楽にまつわる本を取り扱っている、マニアックな出版社だ。
 音楽専門の出版社、と言っても、最新の流行りを追いかけるようなことをしないのが経営方針だ。最近のサブスクにも抵触しない。LPやCDで、アルバムのジャケットを手に、歌い手が選んだ、聞かせたい曲順で聞きたいし、歌詞カードやアートワークを指で追う、そうやって演奏と歌に向き合うのが本来録音された音楽との付き合い方だと思っている。
 だから、会社の方針が私に合っているのが、仕事が苦ではない理由のひとつだ。

 通勤の行き帰り、私は携帯音楽プレイヤーを使って音楽を聴く。今月、70年代から今も活躍し続ける風変わりな歌手の特集担当を任されている。何人ものミュージシャン・評論家、その他、いろんな人の声が混じったムック本を月末に出す。仕事半分、今月はその歌手の曲を浴びるように聞いている。

 一日の仕事を終えて、家でビールを飲んでいると、1通のメールが届いた。
 私の、心からの親友が亡くなった、とあった。メールの送り主にすぐ連絡を取った。都会暮らしに嫌気がさし、実家で田舎暮らしを選んだ5つ年下の、気の置けない友達だった。この世を去った理由は細かくはわからないらしい。私も深くは聞かなかった。ひとつだけ、自死ではないこと、それだけが救いだった。

 「ねえ、歌唄いさん」
 そう話しかけたのは、泣きはらした目をしたまま出社する、いつもの通り道、朝7時20分。
 「お願いがあるの、この曲を歌って」と、タイトルを書いた紙を渡した。いつもと同じ、哲学者めいた顔で彼は歌い始めた。

 Tom Waitsの「Martha」という、夜中に昔の恋人へ電話をかける、中年男の歌。
 でも、歌の主人公は何年も昔の恋人に、ダイアルひとつで繋がれた。
 私は電話をかけても、もうあの声を聴くことが出来ない。

 目をつぶって聴いていた。手にひとしずく落ちるものを感じた。いつの間にか涙していたようだ。ハンカチで目を押さえ、天を仰ぎ、歌唄いさんに「いってきます」と笑顔を浮かべて、道を急いだ。
 「もっと話をしたかったな」と友人に対して想っていた。この歌のように急に電話をかけても、昔話を出来る相手だと思っていたのに。

 雨の季節が来た。
 何日か歌唄いさんが公園にいない日が続いた。
 ある朝、雨は降らず、かといって晴れず、重たい曇天に大割れた空を見上げた。
 荷物の中に折りたたみの傘を入れてあるかを確認しつつ歩いていた。公園にさしかかると、久し振りに歌唄いさんの顔があった。歌唄いさんは相変わらず哲学者のような顔を、しかし、以前よりやつれた顔をしていた。どこで何をしていたのか、聞いても彼は語らないだろう。
 私はいつも通り、「ねえ、歌唄いさん」と話しかけると、今日は彼の方から静かに歌い始めた。いつもの歌唄いさんとは違うものを感じ取った。まるで未来を見てきたような、あるいは過去に出会った人を懐かしむような、そんな歌声だった。
 年老いていったダンサーの、栄光と落ち目の歌。

 Sammy Davis Jr.の「Mr. Bojangles」

 歌い終わると歌唄いさんは、
 「旅に出るよ」とだけ言い、ぎこちない笑顔を初めて見せると、ギターをケースにしまい、私の向かう方向とは反対の、何もない道へと向かい、そして消えた。

 私は何も言えなかった。
 私は何も言わなかった。

 歌唄いさんとの話はこれでおしまい。

 今日も忙しい一日を送りながら、私はふと思う。
 歌唄いさんは今日もギターをつま弾き歌っている。
 歌って聴かせる相手が、いようともいなくとも。


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