「何もない」
「何もない」
作:ニイモトイチヒロ
「私には何もない」
目覚めた彼女は、透き通る声でそう言った。
「物語のない人生、私には物語がない」
昨晩。
強い雨の夜。
待ち合わせ場所に、赤い傘を差した青いコートの彼女が立っていた。
彼女の青白く細い手を繋ぎ、私にとって大切な場所である、馴染みのバーへと向かった。
老いたバーテンダーの作るカクテルは、強いアルコールで、私と彼女を心地よく酔わせた。
手作りのラムレーズンバターをつまみながら、彼女に心酔する映画の話をした。国際的な地位を築いた映画監督が、まったく映画が撮れなくなる映画だ。モノクロの画面を鮮やかな女優たちが彩り、果てしなく大きな組み立てられて放置されているセットはそびえ立ち、現在と過去の記憶が入り混じっていき、現実と幻想の境目がなくなり、やがて映画監督は人生という名前のパレードを描きたいと夢想する。そんな映画だ。
私の話す物語を聞きながら、彼女はレーズンをかみ砕き、ジンライムで流し込んでいた。私はシャーリー・テンプルを飲んでいた。
このバーが大切な理由は2つ。ひとつはバーテンダーが長年作り続けているカクテルの味に惚れている、と言うこと。もうひとつは、私の話す物語を誰も邪魔しないところだ。空気感とでもいうのか、この店には無粋な人間は近寄らない。だから、お気に入りの場所のこのバーには、大切な人しか連れてこない。
最終電車に間に合うように店を出て、家路につく。
自宅へ彼女を招くのはまだ片手で数えるほどだと思う。少なくとも両手では数えられるはずだ。
赤い傘を置いて、彼女は部屋に入りバッグを下ろす。
雨で冷めた体を温めるために、シャワーを浴びる。
ふたりで横になるには小さいベッドで、抱きしめ合う。
ふたつの体を強く結びつけ、ひとつになった。
息を整える。
私の部屋の小さな冷蔵庫には、常に冷えたジンジャーエールとビールが入っている。
シャンディ・ガフ。私の大好きな飲み物を、もっとアルコールを飲みたいと言う彼女のために作る。実に美味しそうに飲み、彼女はそのまま眠りについた。アルコールに強い方だと言っていたが、いささか飲み過ぎたようだ。眠っている背中を抱きしめる。今は体がほてっている。
今日は彼女を安全に家へ呼ぶために、ノンアルコール・カクテルを飲んでいた。
私はあまりアルコールを飲まない。だが、バーで飲むカクテルと、シャンディ・ガフは別だ。ジンジャーエールとビールは、気が向いた時のために常備している。気が向いたので、彼女がシャンディ・ガフを飲んだグラスで、同じものを私も飲む。
ふと思い立ち、彼女に物語を話した映画をテレビに映す。
物語があって無いようなその映画の、シュールな映像美を目に焼き付け、そしていつしか眠ってしまった。
強い雨音でうまく眠れなかった。いつもならアルコールの力で長くなるはずの土曜日の朝。
せっかくだからと、映画の続きを見る。どこまで見たか、記憶の糸をたぐり寄せながら、どこまで観て寝てしまったのか、物語を探す。たどり着いたのは、映画監督が幻想の中で、自分の人生に出てきた女性全員がパーティの準備を重ねているところへプレゼントを抱えてやって来る場面だった。
大学生の時、この映画の主人公の真似をしてテンガロンハットを買った。思えばこの映画を大学生が見るのは、背伸びというやつかもしれない。そんなことを考えていた。
雨はやみそうにない。いつもはこのベッドから見えるはずのこの国で一番高い鉄塔も、雨のモザイクにかき消されている。雨足はひどく強い。
ステレオをつける。ラジオが、雨はこのまま今日いっぱい降り続けると告げる。テレビはもう何ヶ月も見ていない。正確には、テレビはあるが、DVDを再生するだけの機械であり、この部屋を小さな映画館に変える役目しか担っていない。インターネットにも興味は無い。私の情報源はラジオであり、それで十分だと思っている。
軽薄な流行りの音楽流れてきたので、ラジオを止める。お気に入りの音楽を流す。潜水艦のソナーのようなピアノ音が響く、20分以上あるオールド・ロックだ。
音楽に浸っていると、ふと目を覚ました彼女はスッと体を起こし、私の肩により掛かった。
そして言った。
「私には何もない」
真顔でそう言う彼女は、とても美しかった。
「どういう意味?」と聞き返したが、「私には何もない」ともう一度、透き通った声で言う。
音楽を止める。
「私には、物語がないの」
彼女はゆっくりと、しかしながら芯の通った口調で話し出した。
「あなたはあなたの物語があるわ。あなたの口は、いつも物語があふれてる」
そう言われて、今まで彼女に話した物語を思い返す。
罪だと思っている、初恋の相手にいたずらをした話。
雪で大都市がパニックへ陥った話。
夢の中で彼女を拳銃で撃ってしまった話。
空の青さに涙ぐんでしまった話。
愛とは何か悩んだ思春期の話。
海へ行って見つけた、ガラスの破片の話。
嘘をつくと涙が出てしまう友人の癖の話。
街外れでかつての恋人と交わしたキスの話。
……そんな話を、彼女と会うたびに話してきたような気がする。
気がするだけで、どこまで忠実な記憶かはわからないのだけれど。
雨足は更に強くなる。
私の頭を現実に戻し、彼女の声に集中するように促すかのように・
「私にはあなたのように、人に話せるような物語は何もない。平凡な何もない人生を過ごしたわ。わざと物語のない人生を選んできた。その方が生きていくのが楽だったんじゃないかな。何もない、何もない人生。平凡な、ごく平凡な人生……誤解しないでほしいのは、後悔はしていない。心の、本当のところ。何もない、物語のない私が、本当の私」
そこまでゆっくりと、しかし一気に話し終えると、冷蔵庫からシャンディ・ガフを作った時に残ったジンジャーエールを取り出し、グラスへと入れた。
「でもね」
彼女は私の目を真っ直ぐに見つめてこう言った。
「あなたは私を見つけた。それが、私の物語なのかもしれない」
そう言うと、彼女はジンジャーエールをクイッと飲み、もう一度シャワーを浴びに行った。
おしまい
これは、2019年7月のカフェあめだま・言の葉サーカス「物語」に提供したテキストです。
読み手はあん♥Happy Girls Collection with Bの飯村勇太さん。
2018年の時とは違い、物語の1ページ目だけを作家が先に書き、デザイナーさんがデザインを施し、その続きを作家がテキストを書き、演者が朗読する……という企画でした。
この時はキヨアキさんという方に、1ページ目(「私には何もない」から「ふたつの体を強く結びつけ、ひとつになった。」まで)をイメージに参照してもらってイラストを描いていただきました。
朗読の方は、自分のがいたテキストに忠実に、飯村さんの色を足して読んでいただきました。
多少エロティックというか、使ってみたかった表現を盛り込んでみた作品です。
前回に当たる「文字と本とものがたりと」は、文字と物語にあふれた空間の話だったので、逆に何もない女性の話を書きたくなり、書きました。
文章中の映画は、ピンとくる方には分かるかもですけど。あえて映画のタイトルは出さないでおきます。
ヘッダーの画像はデヴィッド・リンチがその映画を描いたリトグラフです。
これで分かる人は分かるでしょうね。
これ以上は野暮なんで省略。
「文字と~」が役者のリズムに合わせたものに対して、これは作家のリズムの文章になっていると思います。
多少のナルシズムは御容赦。
サポートいただければ嬉しいです 今後の教養の糧に使わせていただきます!