2022/02/07(月)

まだ読み始め。「ヴェネツィアの宿」部分。

須賀敦子の両親の関係について初めて知った。須賀敦子のヨーロッパへの興味は父親の影響であり、そうした影響を自身に与えた父親をただただまっすぐに好きであったのだと思っていたので、父親が愛人を作っていたこと、そのことを須賀敦子自身が直接母親に伝えたこと、その父と母との関係の修復に須賀敦子自身が懸命になったというエピソードは意外だった。須賀敦子は裕福で恵まれた家庭で大きな苦労もなく育ち、そうした日本での生活とのギャップをイタリアで感じると同時に、だからこそそうしたイタリアの人々の生活に惹かれていったのかなと思っていた。しかし、須賀敦子の日本での暮らしの中にも、家族の関係で葛藤した時期、そして精神的につらかった時期があったのだな、と思った。

遠藤周作のETV特集では、遠藤周作が母をめぐる父親との関係に長年葛藤し、自身が父親となった後も、自分自身の父親に対する思いを整理しきれずにいたということを知った。

そしてまた、須賀敦子も同様な思いがあったのだろうかと考えたりする。後の須賀敦子の父親への気持ちがどのように変化していったのかは著作を読み進めてみないとわからないが(読み進めてもわからないのだろうか…)、遠藤にしても須賀にしても、自分の親に対して複雑な思いを抱いたりすることは、何もめずらしいこと、おかしいことではないのかもしれないと思い、どこか救われるような思いもあった。

私自身の両親に対する記憶として、遠藤や須賀のような大きな出来事があったわけではないが、自分の今の精神的な癖・指向などを形成した要素を記憶を振り返って考えてみたときに、両親(特に母親)から言われたこと・言われなかったことが関係しているのかもしれないと、この歳になって思い始めてしまった。自分がどこか社会に対して「やりづらい」と思う部分を、両親に責任転嫁しようとしているようにも思えてあまりよろしくないのではと思いつつ、自分は幼い頃、どんな言葉を両親にかけられ、両親のどんな姿を見て、何を思って生きていたのか。そしてそれらがもし少しでも違っていたとしたら。今更そんなことを言い出しても何にもならないと思いつつ、つい、そんなことを考えてしまったりもする。

世間から立派に「大人」と言われるいい年齢になっても、自分のことすら相変わらずよく分からず、世間や社会との折り合いもうまくつけられないままで生きている自分を、めんどくさいやら情けないやら子どもっぽいやら、と思う。そうした心の葛藤や弱さに、いま寄り添ってくれているのが、文学であるように思う。ここ半年ほど急に文学を読むのがおもしろくなってきたのは、そうした自分の変化があるのだろう。

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