祖母のこと

 二十歳のころ、祖母が死んだ。
 春。私は大学生で、三回生になったばかりだった。ちょうどサークルの新歓コンパの時期で、コリアンタウンで新入生に昼食をごちそうする、という企画をしていたのだけれど、葬式の日と重なってしまい、参加できなかった。式のあいまに、「新入生は何人来た?」とか、「なに食べた?」とか「盛りあがった?」とか、いちいちメールできいていた記憶がある。狭い控室で親族に囲まれながら、どうにかして外とのつながりをもちたかったのかもしれないし、あるいは単純に、時間をもてあましていただけだったのかもしれない。
 祖母は突然死んだわけではなかった。認知症になり、寝たきりになり、最終的に肺炎になって死んだ。意識を失ってから息をひきとるまでにいくらかの猶予があり、面会に行くこともできた。私は、祖母が死ぬことをちゃんとわかっていた。それでも亡くなったときいたときには、ほんとうに? と思った。ほんとうに、そんなことがいま起こっているというの? と。祖母がいない世界で自分が生きている、というのは、じつに奇妙なことだった。だって、私がうまれた瞬間から、祖母は——たとえ離れて暮らしてはいても——この世のどこかでずっと生きているひとだったから。
 祖母は私のことをほとんど手放しで、惜しみなく愛していた。祖母には息子が四人おり、そのうちのひとりが私の父なのだけれど、ほんとうはひとりくらい女の子がほしかった、らしい。そして私は、その待望の女の子なのだった。
 幼いころ、祖母はきまって私の髪を褒めた。黒々としてゆたかな、胸までまっすぐに伸ばした私の髪を。祖母の手には、人さし指のつけ根にまんまるのイボがあり、その手でよく髪を梳いてくれた。そのほかに、たとえば容姿——ちなみに私は父に似ているというより、祖母によく似ている——や、背が伸びたことや、食欲の旺盛さなんかを律義に褒めてくれた。年齢があがってからは、学校の成績がよいとしみじみ喜んでくれたし、高校受験のときに県内の進学校を志望したのは、この高校なら祖母も名前を知っているだろうと、考えたからだった。
 それから、祖母といえばコアラのマーチ。祖母はいつも、孫たちのためにお菓子を——どうしてだかいつも、コアラのマーチを——買い置いてくれていた。カップヌードルやスティックシュガー、茶筒なんかを置いてある戸棚からそっとだしてくるのだ。みるたびに笑ってしまった。またコアラのマーチ? とくべつに好きだと言った覚えもないのに、祖母のなかでは、なぜかそれが定番(もしくは、十八番)なのだった。
 祖母の手料理はほとんど——湯がいたそうめんくらいしか——食べたことがないけれど、“あんころもち”は好きだった。うちでいう“あんころもち”は、焼いたおもちにあんこを挟んでつくったおやつで、きまってお正月にたべた。つくりかたは簡単なのに、なぜか祖母のつくるものがいちばんおいしかった。祖母が“あんころもち”をつくっているところを、しかし私はほとんどみたことがない。現金なことに、つくる過程には興味がなかったのだ。一度だけみたことがある(そして強烈に記憶している)のは、いつかのお正月、暗い台所でコンロの前に立つ祖母の、ひっそりとしたうしろ姿。その日は日差しがまるでなく、いつも明るい台所は、全体的につめたい青色をしていた。
 時が経ち、晴れて成人式を迎えたものの、祖母はすでに私が誰だかわかっていなかった。それを承知のうえで大雪のなか、式を終えてから母と車で、振袖姿をみせに行った。祖母はベッドの上で、笑顔で着物を撫でてくれた。誰か知らないふたりの女の子の名前をつぶやきながら。それでも嬉しかった。女の子の孫としての役目を果たせた、とも思った。それが、祖母が死んでしまう、たった三か月前のことだ。
 祖母が救急車で病院へ運ばれたとき、私はちょうど大学から帰るところだった。母から連絡があり、もし来られそうなら会いに来たほうがいい、これで最後になるかもしれない、といったようなことを言われた。本やプリントがぎっしり詰まったトートバッグは重く、駅前にはひとがたくさんおり、夕暮れは綺麗なオレンジ色をしていた。
 病院についたころにはとっくに日が暮れていた。想像していたよりこぢんまりとした建物で、診療時間外のロビーは緑色の非常灯だけがついており、そこで母が私を待っていた。
 病室が何階にあったのか、何号室だったのか、そのあたりのことはまったく記憶にない。覚えているのは、病室は個室で、入口から向かって左の端にベッドがあり、そこに祖母が眠っていたということ。布団に埋まっている祖母の顔色はあまりよくなかったが、それはベッドのそばの照明が、ついていなかったせいかもしれない。言葉を交わせるような状態ではなかったので、顔をみただけで帰った。生きている祖母に会ったのは、それが最後だった。
 祖母が病院から家に帰り、和室で、ドライアイスとともに眠っているあいだに、私は祖母宛の手紙を書いた。一階はどこも騒々しかったので、二階の寝室の、ブラウン管テレビを机にして立ったまま書いた。死んだ人間に手紙を書くなんて、人生ではじめての経験だった。なんと認めたかはちっとも思いだせないのに、書きながらぼろぼろと泣いてしまったことはよく覚えている。あの熱い涙。ああ、泣きそう、なんていう予感もないままに、気がつけば目から押しだされていた制御不能の涙。死に顔を拝んだときだってこんなふうにはならなかったのに? 私はびっくりした。びっくりしたまま、ペンを握って泣いていた。みんながどうだったのかは知らないけれど、私が祖母とお別れをしたのは、たぶんあの瞬間だったのだと思う。式の最中とか、火葬場で着火のボタンを押したときとか、骨だけになった祖母をみた瞬間、とかではなく。
 祖母が亡くなってから、私は祖母のことをいっそう身近に感じるようになった。祖母は私の頭上——といってもすぐそばではなく、頭のてっぺんから空へまっすぐ線を伸ばして、雲をつっきるかつっきらないかくらいの場所——につねにいて、私を見守ってくれている。自然とそう思えた。いつだって近くにいるのだから、極端な話、墓参りに行く必要さえないと思ったほどだ。そしてその感覚は、祖母の死後、数年つづいた。ばかげてきこえるかもしれないが、そのころの私はいたって大まじめだった。
 追悼の意味をこめて、いつか祖母からもらったK18のネックレスを、気の済むまで身につけて大学に通った。いったいどのくらいの期間そうしていたのだろう。そうながくはないが、けっしてみじかくもなかったと思う。もちろんいまは身につけていないし、身につけようとも思わない。だってデザインが古いのだ。みたこともないかたちのチェーン。どんな服にも似合わないし、第一、太くて肩が凝る。ともかくあれは、若者がオシャレでするようなネックレスではない。
 そういうわけで、もう頭上に祖母の存在なんて感じられないし、形見のネックレスも、ずっと抽斗のなか。祖母のことを忘れてしまったわけではないけれど、思いだせないことも多いし、忘れたことすら忘れてしまったこともたくさんあるのだろう。私は元来、忘れるのが得意なたちなので、これからもきっとどんどん忘れていく。自信がある。
 さて。いまの私をみたら、祖母は私に気づくだろうか、と、考えてみる。もう子どもではない私。けれどきっとすぐに気がつくはずだ。だって私は、祖母によく似ている。それで、いつもみたいに手のイボを触らせてくれる。私の髪を撫で、「べっぴんさんになったね」と言い、やっぱりコアラのマーチを戸棚からだしてくれる。ひさしぶりに会うのだから、お小遣いだって奮発してくれるだろう。
 祖母は絶対的に私の味方だった。幼いころから、私はそれを知っていた。
 私の記憶のなかの祖母は、いつも私が小学生のころ、会ったときの姿をしている。紫色のカーディガンを羽織り、きちんとおばあちゃん然としていて、そこから若返ることも、歳をとることもない。


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