私が書籍を「全文」読んでいるワケ
プロフィールにも書いてある通り、私は書籍を「全文」読んでいます。
ビジネス書でも、実用書でも、古典でも、ベストセラーでも。
1ページ、いや、1文字たりとも飛ばしません。
たぶんこんな読み方をしている人は少数派で、
本を読む人のほとんどが共感できないでしょう。
むしろ、嘲笑の的ですらあるかもしれません。
「本は大事なところだけを読む」
「目次を見て、自分に必要なところだけ読む」
どんな「読書術」の本にも書いてあります。
それで良いと思います。
私が全文読むのは「自分でそう決めた」だけで、
まったくオススメするものではありません。
ましてや「そうすべきだ」とは微塵も思いません。
だからこの記事は、独り言です。
私が「全文」を読む理由について。
結論から言えば、
「著者の "主張" よりも、そこにいたった "過程" にこそ興味がある」
からです。
それではよろしくお願いします。
小説をどう読むか?
冒頭で分かりづらい結論を述べてしまったので、
一番分かりやすい言葉に言い換えておきます。
私が書籍を「全文」読む理由は、
皆さんが小説を「全文」読む理由と同じです。
買ってきた小説を、さあ読むぞ!というとき、
最後のページをいきなり読む人はいません。
200ページ目から読み始める人はいません。
なぜでしょうか?
話のオチ(結論)を単体で知っても、意味がないからです。
200ページ目から読んでも、話のつながりが分からないからです。
そこに至るまでに起こった出来事。
印象的なエピソード。
主人公の気持ちの変化。
そういった、小説の中に散りばめられた「紆余曲折」こそが、小説の結論に「意味を与える」のです。
つまり小説の価値は、
「結論」よりもそこに至る「過程」にこそある。
ということです。
じゃあ、実用書は?
実用書やビジネス書、新書はどうでしょうか?
私にとっては、
「小説は全文くまなく読むべきだが、実用書は摘まみ食いでいい」
という考え方は不思議です。
これらの本にも、著者がその結論に至った「流れ」があるハズ。
すなわち、
その本の「結論」や「要点」よりも、著者がそこに至るまでに辿った論理展開や、言葉づかい、引用した情報にこそ価値がある。
と思うのです。
もし「結論が一番大事」なのであれば、わざわざ本を「読む」必要性はなくて、単に要約サイトを確認すればよいです。
あるいは、Amazonの書籍紹介を見るだけでも代用が可能かもしれません。
著者がその結論に至るまでに、どんな材料を集め、そこから何を考え、私たちにどんな言葉で伝えようとしているのか。
そこに触れてこその読書だと(私は)考えます。
全てを取り込むことで、著者を自分の中に「トレース」できるのです。
そしてその憑依した著者は、自分の書く文章に大きな影響を与えています。
たくさんの著者たちが使った言葉や論理の数々が、自身の発信に活きている。
そしてそれは紛れもなく「全文読んだからこそ」得られたものです。
読むのを辞める本はたくさんある
「でも、いちいち全文読んでいたら、時間が足りないでしょ?」
多くの方はそう思われるでしょう。
その通りです。
だから「全文読む」のは「全文読むに値する」と感じた本のみです。
「この本は今の自分には合わない」とか、
「あんまり気乗りしない」と感じる場合は、バッサリと読むのを辞めます。
読書記録もGoogleドライブの「読書中断」フォルダにポイします。
ただ、「読むのを諦めた書籍」はnoteでは紹介しないことに決めています。
読まなかったのに何かを評する、っていうのは著者に失礼な気がするので。
だから厳密には、
「このnoteで紹介している書籍は全て、徹頭徹尾、読み込んでいる」
という表現が正しいですね。
まとめ
今回は「私が書籍を全文読んでいる理由」について書きました。
冒頭に述べましたが、これが「正しい読み方」とは全く思っていません。
(というより「正しい読み方」なんてものはありません)
でもこの読書は自分の性には合っているので、
読書方法について悩んでいる誰かの役には立てるかもと思いました。
「読んだのに何も覚えていない」ということは起こらなくなりましたし、
発信における「ネタ切れ」という概念からは無縁になりました。
何より著者のことをよく理解できるようになったのが収穫ですね。
普段は読書によって得られた知見をもとに、記事を書いています。
よければサイトマップにもお越しください。
それでは、また。
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