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勉強と学習と学問の違い

進学塾GRIP 代表 高橋正浩

前回のNeGLLaの投稿から二カ月近くが過ぎていました。投稿を待っている人がいるわけではないと思いますが、それにしても怠けていたものです。ごめんなさい。4つのマガジンを並行して書き続けていくのは結構大変だといまさら思います。
高橋さんは何してる人なの?と聞かれることがありますが、基本は個人塾を経営している塾講師です。なので本職は教育なんだと思いますが、まあいろいろなことをしています。

さて、今日は久しぶりに教育に関して筆をとろうと思います。テーマは「勉強と学習と学問の違い」です。本当の意味でこれらがどう違うのかは十分に調べたわけではありませんし、これから書くことは個人的な見解の域を出ません。しかしながら中学生や高校生の中には成績が上がるかどうかという悩みのほかに、自分が日々向き合っている学びの意義そのものに対する悩みを漠然と抱えている人も少なくないでしょう。そして、その悩みが学ぶことへの意欲そのものを減退させていく場合も少なくないと思うので、そんな悩みを抱えている生徒やその保護者が、学ぶことそのものについて考えるきっかけとなれば幸いです。

勉強とは何か

画像のサブタイトルにある「真剣にやれよ、勉強じゃないんだから」という言葉はタレントのタモリが「真剣にやれよ、仕事じゃないんだから」という言葉を使っているのに影響を受けていつもこのフレーズを使う人に影響を受けた私が、自分の塾で塾生に繰り返し送るメッセージです。遠回しな言い方してしまいましたが、タモリの言葉の三次利用ということですね。
進学塾GRIPの入り口にはこうして掲げてあります。

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そもそも勉強という言葉には学ぶという意味はありません。漢字の意味としては「勉め強いる」ということしか表していないのですから。

関西方面に行くと小売店で「勉強しまっせ」という言葉が「値引きする」という意味で用いられることを知る人は少なくないでしょう。実は言葉の歴史としてはこちらの方が古く、江戸時代にはすでに勉強する=値引きするという意味で用いられています。一方で勉強する=知識を身に着ける努力という現在のような意味で用いられるようになったのは明治以降のことなんです。殖産興業、富国強兵という流れの中で国民を産業構造にマッチした人間にカスタマイズするために都合の良い言葉だったのでしょう。日本の近代化のために国民のすべてが勉め強いられてきたということではないでしょうか。

したがって、厳密な意味においては江戸時代の寺子屋において勉強していた子供はいないということになります。

そんなことにこだわる意味はないという人もいるでしょうが、私はこだわりたいのです。勉強はあくまでも他人にさせられるものであり、受動的な活動でしかありません。そんなものにいくら真剣になっても磨かれるのは従順さだけで、21世紀を楽しくたくましく生きていく強さは手に入らないでしょう。

だから、真剣にやるべきは勉強ではありません。

学習とは何か

現在ではほとんどの場面において勉強=学習ということになっています。私もついつい混同して言葉にしてしまうことがあるのですが、この両者は決定的に違います。勉強が勉め強いるという意味であるのに対して、学習は学び習うということですから。中学生や高校生が取り組むべきは後者です。

先日中学三年生の国語のテキストに「守破離」の話が出てきました。とても残念なことですが、中学三年生の塾生は誰も守破離という言葉を知りませんでした。たしかに日常生活であまりお目にかかることはないので、やむを得ないことなのかもしれません。そのテキストにもありましたが、守破離は華道や茶道、武道など日本古来の習い事に身を置けば必ず意識することだと思います。ここでは守破離について詳しい説明はしませんが、テキストにおいては「守」は手本を真似ることにあると書かれていました。

「守」の段階においては師匠や先生の手本を徹底的に真似る。真似ているうちに基本が身につく。真似ることに意味がないと我流になる人はほとんど全て遠回りをすることになる。というようなことが書かれていましたが、私も宮大工見習いの経験上、親方や先輩の仕事を真似ることの重要性は経験してきました。

この「守」こそが「学習」だと私は考えます。そもそも「学ぶ」はいまでは「まなぶ」と読みますが、もともとは「まねぶ」と読み「真似ぶ」がその語源であると言われています。手本を真似ることが学習であるということです。学校においては教科書の内容を身に着けること、教科書の内容を再現可能なほどに真似することが重要だということです。そのことそのものにはオリジナリティは必要ありません。

しかし、学習の方法論は進化していることに注意が必要です。子どもたちの学習における師匠は学校の先生であれ塾講師であれかつては人間しかいませんでした。そして用いる教材は紙であることが基本でしたが、これらについてはすでに状況が異なります。徳に関することや学習のモチベーションについては人間対人間のほうが効果がありますが、知識の伝達という点においてはすでに教える側が人間でなければならないわけではありません。テクノロジーによって様々な学習スタイルが可能となりました。もちろん教材も紙である必要はありません(ノートはいるでしょうが)。

守であれ学習であれその効果を最大限に発揮させられるかどうかのカギは主体的であるかどうかです。教えてくれるのを待つのではなく、自ら学ぶ姿勢が必要です。少なくとも中学生や高校生にもなって自分ができない理由として、「習っていない」などと言っているようではお話になりません。先述したテクノロジーの進化によりますますそんな言い訳は通用しなくなるでしょう。実際にYouTubeで英語を学んで習得する東南アジアの子どもたちはいくらでもいて、彼ら彼女らは学びに飢えている分だけ非常に貪欲です。知識が与えられるものだととらえて構わないのは小学生までといっても過言ではありません。意識を改めましょう。

もちろん、大人になったら教えてもらえないことばかりですから。

学問とは何か

学問という言葉を検索してみるとこのように出てきます。

学問とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。

もちろん学問という言葉もまた多義的であり学習と同じ意味で用いられることもあるものの。基本的には中学校や高校での学習内容を超えた知識の体系を指すことが一般的です。つまりは大学においてはじめて学問と出合うということでほぼ間違いないでしょう。

先ほどの「守破離」になぞらえて言えば守と破の中間地点から先が学問の世界ということになるでしょうか。ノーベル賞ともなればまさに離の極致と言えるでしょう。学問は限りなく広くどこまでも深い世界へと続いているのです。

したがって本当に面白い!と感じることができるのは学問の世界のはずです。しかし高度なことを面白いと感じるには基礎が必要だと思います。中学や高校における学習の密度は大学において学問と出合うことができたときにその効果を真の意味において発揮することになると私は考えます。

社会に出て役に立つかどうかによって学習するかどうかを決めるのでは学びがいがありません。そうではなく、どんな学習内容も社会に出たときに自分の人生を豊かにし、社会に貢献できるようになるために学問と向き合うその日のために今の学習があると信じてほしいと思います。

勉強に押しつぶされるな!
学問と向き合い人生を豊かにするために今学習せよ!

今回のnoteでのメッセージは一言でいうとそういうことなんです。

最後になりますが、不登校で悩んでいる生徒や保護者の方にぜひとも申し上げたいのは、学校はいくつかある学習の手段の一つでしかないということです。学習の方法は多様であり、現在では学校でしか学習できないことはもうありません。ゆっくりと自分の学びたいこと、自分に合った学び方について考えることも人生を豊かにするために必要です。決して「勉強しなきゃ」と思わないでください。その固定観念こそが最大の敵なのです。自分を信じて、時に立ち止まってもいいから一歩ずつ前に進んでみてください。どこかに君を待っている人がいるのですから。

最後まで読んでいただきありがとうございました。また書きます。


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