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「モテる」自分なんてもう、捨ててしまえよ。

モテる、とはキレイとかカッコいいということではない。
可愛い、ということでもないし、性格がいい、感じがいい、ということでもない。
それは、次々にターゲットを変えて後妻業なんかで名を馳せた稀代の悪女たちを見れば「なるほど」となるだろうし、
日本を代表するような美しい女優さんやタレントさんが必ずしも「モテる」わけではないことを見ても明らかだ。

誰かに、「なんかモテそう」とか「モテるでしょ」と言われたらそれはむしろ悪口だ。
異性に「モテそう」って言われたら、チャラそうチョロそう遊んでそう、みたいなニュアンスになるし、
同性から言われたのなら、八方美人やり手あなたなんかやらかしそうだから気をつけなさいよ、みたいな意味になる。
給湯室で「〇〇さんて、なんかモテそうですよね」なんてあなたの名前が挙がったなら、それはもうイジメのターゲットにされかけている。
つまりモテると言うのは、断じて褒め言葉ではない。
モテていると言う自覚があるならそれは、生活習慣を見直すべき、もうちょっとコミュニケーション能力を磨くべき状況ですよ、と言うことだ。

「モテる」とは何か。
先日、とある占いを聞いて驚いた。
【あなたに出会った人は、こんな人に出会えてラッキーだ、と感じている。
それはあなたの、カメレオンのような共鳴力に起因している。
あなたは相手の望むものが分かっているから、相手が今、どんな言葉をかけて欲しいか、どんな態度をとって欲しいのか、期待に応え、相手にやってあげることが出来てしまう。
それをピンポイントでしてもらった相手は、
この人は自分のことをわかってくれる、付き合いやすい、話が合う、笑ってくれる、懐に入れてくれる、今までこんな距離感で人と付き合えたことはなかった、と感じる。
結果、あなたは相手に「もしかしてこの人は自分の、運命の人なのではないか」と思わせてしまう力がある。
つまり、魔女だ】
そんな鑑定結果だった。

こんなところで見栄を張っても仕方ないから白状するが、私はモテる。
つまり、やらかす。
結婚してからはさすがにもう大丈夫だろうと思ったら、代わりに女性から追いかけ回されるようになった。
モテるとは、相手の奥深くにしまったスイッチを押すような行為であり、
相手の庭に、誰かが土足でつま先踏み込んだ瞬間に発生する現象のことだ。
占いを聞いて、ああ確かに自分は無自覚にそういうことしているかも、と過去のいろんなことを思い出した。
兄弟の兄、弟両方から好意をもたれたり、
ママ友が、アクロバットな策略をけしかけて、無理くり私の個人情報を聞き出そうとしてきたり、
お茶に誘われて出かけたら、相手が、私が最近よくしていたコーディネートを、
組み合わせからアクセサリーに至るまでそっくり真似てにこやかに現れたり、
誰かとお付き合いが始まりそうになると、必ず「ちょっと待った」する人が割り込んできたり、
私を巡って、二人の女性が壮絶なバトルを繰り広げたり、
周期的に新たなストーカーが現れたり。
それを、会釈の角度が深すぎたから、帰り際に言ったお礼が過分だったから、と細かく分析しては、
反省して工夫して、そうやって対処療法で今までなんとか乗り切ってきた。
自分がまた、やらかしてしまわないように。
でも、そうじゃないのだ。
相手の望むものが、わかりすぎる。
わかるからつい、与えすぎる。
この、ついつい与えすぎてしまう根底にいつもあるのは、「嫌われる恐怖」だ。
結果、相手はジャブジャブと与えられて、心地よくなってそれが当たり前になって、”運命的な仲良し”
ってその関係性を肯定的に総括するのに対し、
いつも与えるばかりの私は、見えない角度で、永遠に毟り取られる恐怖と満たされないストレスが溜まっていく。
幸せになることも、安心感を得ることもでもない。
そしてある時、私が投げかけたのに受け取ってもらえなかった、
気づいてすらもらえなかった、宙に浮いたままの8割の気遣いや注いだ愛情の自重で、ぶっちんと糸が切れる。
切れた糸とは、多分堪忍袋の緒だ。
けれど相手には、なぜ自分が突然嫌われたのか、なぜ自分が怖がられているのか、全くわからない。
あんなにニコニコしてたのに、仲良しだったのに、どうして?
その言い方が、私にはDV男のよくある言い分のように聞こえる。
「確かに殴ったけど、骨もちょっと折っちゃったことあったけど、
でもでも、治ったし、仲よかったし、幸せそうに笑ってた時間だってあったじゃん、だから今でも俺(私)のことを本当は好きに違いない、
これはちょっとした、誤解と行き違いだ」
この伝わらなさが、理解してもらえない恐怖が、吐き出しようのない怒りに変わって私の体内に蓄積していく。
笑えるじゃないか。
こんなに全身全霊で頑張って、全方位幸せになる人が一人もいないとは。

人との境界線が正常に引けない。それはつまり、共依存だ。
付け焼き刃の対処療法では、問題は解決しない。
「嫌われるのが怖い」という無意識下まで深く染み付いてしまった恐怖を自分の中から取り除いていくのは、口でいうほど易しくない。
それでも時間をかけて、しっかりとアプローチしてこれを癒していくと、
だんだんと、目の前の相手の顔色よりも、
今、自分は心地いいか不快か、
これ以上引きつった笑顔を続けたいか、もう帰りたいと思っているか、
あるいは今、この人といて楽しい、嬉しい、この人の話をもっと聞きたいと思っているか、相手にこれをしてあげたいと思っているのか、それとも、この場をなんとか丸く収めようとしているだけなのか、
自分の気持ちに集中できるようになっていく。
他人に優しくするよりも、一番に、自分が自分に優しくすること。
一場面一場面、目の前に現れた人に練習台になってもらって、今までの癖になってるやり方を精査しながら丁寧に生きること。
すると、現実が穏やかになって、目の前にいる人が話の通じる優しい人に変わっていく。
人間関係の悩みや苦手意識が少しずつ取れて、恐怖や緊張感がなくなっていく
無駄にやらかすこともないし、日常がもっとラクに、楽しくなる。

今まですでに築いて来てしまった関係性の中で、私という人間に対する印象を、
「なんでも気が合う仲良し(深層心理ではなんでも言うことを聞く便利な子分)」という認識から、
「変なことを言い始めた、逆らい始めた、ムカつくやつ」と認識されるフェーズを超えて、
「この人は何を言ってももう無駄だ、この人ならもっとやりかねない、だってそういう人だから」
と諦め、弛緩してもらえるところまで変化、昇華させるのは、確かに力がいる。
変な人だと責められることもあるし、言い争いのようになって対峙しなければならないこともある。
去っていく人も、自然に消滅してしまう人、こちらから静かに後退してさよならを図る人もいる。
それでも、それは、やる価値がある。
いなくなった分、相手がスペースを空けてくれた分、そこに新しい出会いや発見があって、それは今までの苦しさとは無縁の、もっと軽やかなものに変わっていくからだ。


昨今、ジャニーズの問題が取り沙汰されている。
日本のマスコミが及び腰になって問題が停滞しそうになると、
この件で急先鋒となったイギリスのBBCが出てきて突き始める。
とうとう先日、ジャニーズ事務所の記者会見まで開かれるに至り、その影響はまだ波紋を広げている。
それでも忖度を止めようとしない企業やマスコミがあると、またBBCがチクリと批判する。
その流れに乗って、いつも批判するべき「ターゲット」が誰かによって提示されるたびに群がってくる、日頃の鬱憤をため込んだ人たちが追従を始め、社会の雰囲気がそろりそろりと変わっていく。

BBCがこうしてジャニーズ問題を追求するのは、「海外では人権に対する意識が高いからだ」なんて分析している人がいて私は思わず、声をあげて笑った。
BBCにはいずれ、盛大なブーメランが突き刺さる。


それが分かっていて、脛に傷持つ同じ穴の狢が、わざわざ人様の国まで出張ってくるこの茶番
世界中で連発する台風や地震、洪水のニュースを聞くたびに、私は”ばら撒きメガネ”さんを思い出す。

本当にあんな湯水のごとく世界中に配りまくるほどの大金が、日本政府にあるのだろうか。
実際領収書を見たわけじゃない、本当に、口約束ではなくて全ての国に支払っているのか。
一括送信なのか、分割払いなのか。支払いは何処まで完了しているのか。
額面通りのことが起きているとは、私には到底思えない。
怒るのもバカらしい。

いじめられっ子がその渦中から抜けて幸せになっていくのには、力がいる。
この過渡期に必要なのは、バランスだ。
一気に引き抜けば、一か八かのジェンガのようになる。
ともかく言えることは、もう世界中が連携しながら前に進んでいるということ。

日本国内のことに話を戻せば、ジャニーズ問題は必ず、秋元康に飛び火する。
去年、10年ぶりくらいで年末の紅白歌合戦をつけてみた。
前半を少し見ただけだけれど、長い手足でギリギリまで身体を露出した、
全然顔も名前も分からない、韓国アイドルばかりが登場して来てびっくりした。
子供の頃に見ていた、日本の今年を彩った芸能人の最高峰が集まる、煌びやかな紅白。
この限りあるステージに選ばれた羨望と憧れ、誇りと喜びの後ろにある、何か得体の知れないおどろおどろしさを湛えて
一般人には分かり得ない、独特の達成感と焦燥感を纏ったスターたちが、仲良しを装って一堂に並んで見せる。
あそこに溢れていたパワーは、もう何処にもなかった。
今年の紅白はどうなるんだろう。
こうしてテレビは、力を失っていくのだろう。
オリンピック問題と挟み撃ちされる形で、それは電通にも波及する。
なぜジャニーズがこんなに力を持ったのか。なぜ電通が。
その成り立ちを考えれば、秘密を押し込める力を失った時点でガラガラと瓦解していくのは目に見えている。
同じ理由で、同じような巨大な組織が連鎖的に、暴かれ凋落していくだろう。
やがてそれは日本政府に向かう。

もう隠せない。

というよりも、どうして今までこんな子供騙しが、まるでなかったことのように秘密のようにされ、気づかないフリをされ、
図々しくも平然と、その上に利権や体裁だけ整ったシステムが乗っかって、社会の成立することが出来ていたのか。
一体自分は今まで、何を考えて何を見ていたんだろうと、みんな首を捻りたくなるようなターンがやって来る。
あの可哀想な男の子たちを、憧れの対象のように光を当てお金を貢いで、うちわを振って応援していたファンタジーからみんなが目覚めつつあるように。

罪のない人なんていない。
全ての人が、このシステムの中で生きてきたのだから。
それでも反論の余地のない事実としてそれがいざ目の前に現れた時、私たちはどこまで現状維持するために、冷徹さを貫き通せるだろう。
自分が、自分の目の前の人が、苦しむ姿を見ても尚、
どこまで見ないフリ、気づかないフリ、何もないフリを続けられるだろう。
本当は自分も苦しかった、という事実から、目をそらし続けることができるのだろう。


ニジェールでクーデター。背後にロシアの影か。

9月からまた摂取。

ジャニーズ名前変えず。湧いてでてくる糺弾者たち。

シカゴ。NY。アメリカ大都市で今、本当は何が起きているか。日本人は知らない。

バイデン大統領、着々と進む弾劾準備。


自白して、自滅する。悪手を重ねる。
今まで当たり前にあったこと、みんなが見て見ぬ振りをして、なんなら自分もそれに便乗してたくましく利用してやろうと、
うまく渡り歩いてやろうとしてきたそのシステムの在り方が、矛盾が、冷たさが、本質が、目の前に噴出してくる。

もう数年来通っているカウンセリングで、私は以前、自分には周囲の人間がみんな蛙に見える、という悩みを相談した。
カウンセラーの先生には、、では相手に伝わりませんね、蛙とは何を意味しているのか、
それをもっと平易な言葉で言語化できなければ、と言われた。
考えても考えても、蛙はずっと蛙のままだったのだけれど、今ならもう少し言葉を開いて説明できる。

自分の顔にバシャバシャと水をかけられていても、目も閉じない。無抵抗。気づかない。
自分が作った飛沫で目の前の人が苦しんでいても、共感できない。気がつかない。
我慢するのが当たり前になってしまっている人たち。感情を感じることが出来なくなってしまっている人たち。

それが私が感じていた違和感、「蛙」と言う言葉に集約された姿だ。
どこまでも気づかないフリを続けて耳を塞いでうずくまるうち、
それは否定しようもないほどあなたの眼前に迫って来て、直視するまであなたの心をえぐり取る。
苦しむことが出来ると言うのは才能だ」と言った方がいたが、それは真理だ。
自分は今苦しい、と感じることができるというのは、現代においてはもはや稀少な特殊能力だ。
踏みとどまり、誤魔化さず、腹に力を込めて、えい、と事実を受け止める。
どちらが正しい間違っている、ではなくて、一人一人に問われているのだ。
あなたはそれを、どう思いますか?
あなたは、どんな人間ですか?
あなたは、人間でいたいですか?
あなたは、どんな未来に、向かいたいですか?

この巨大な詐欺社会がなぜ今まで成立していたのか。
それは、社会全体がみんな、共依存だからだ。
嫌われるのが怖いから。
あなたは本当に、ワクチンなんか打ちたかったのだろうか。
副反応が怖い怖いって思いつつ、不本意ながら…
それならなぜ、自分で問診表を書き、自分で電車に乗って摂取会場に行き、
椅子に座って腕をまくって見せたのか。
相手の顔色ではなくて、もっとシンプルに今自分がどうしたいかに各自がフォーカスできれば、
別にワクチンを打つか打たないか、マスクをするかしないかなんて
マスコミの決めた方向性に踊らされ、振り回され、国やWHOや法律、学校や会社の方針で決めてもらわなくても自分で決められる。
こんな悲劇は、防げたことなのだ。

共依存が社会からキレイになくなることはきっとない。
共依存からの脱却は、時間がかかるし本当に苦しいからだ。
全ての人に出来るわけじゃない、この強さが、全ての人に備わっているわけではない、と、私はこの数年、身を以て体験した。
それでも、何が問題だったのか、もっとシンプルにみんなが認識し、
自分と向き合うとは一体どういうことなのか、その角度を、その重要性を、
みんなが当たり前に認識し、それを真摯に学ぼうとする社会は、何年かかかっても必ずやって来る。
本当はシンプルだったものを、こねくり回して複雑にして、さも頑張らなければいけないかのように洗脳されていただけなのだ。
それさえみんなが共通認識として分かってしまえば、必ず今より、平和になる。
あとは今のこの過渡期を、みんなでどうやって乗り越えるかだけだ。


昔から、キラキラとなんの問題なく道の真ん中を歩けてしまうようなシンプルな人よりも、何処か何かをこじらせてる複雑な人の方が好きだった。
その人の中に何が入っているのか、何がどうなって何をこじらせてるのか、知りたくなる。
好奇心が抑えられなくなる。
私はきっと本当は、ものすごく人間が好きなのだ。
私の「モテる」の原点は、共依存によってややこしくなってしまったけれど、
きっとそこなんだと私は何処かで自分を信じている。
非の打ちどころなく優しくて完璧でなんでも出来てなんでも知ってて視えている、
何か神様とか、高次のなんちゃらとかと一緒にいて、その横で、
「すいません自分、未熟者で」
って一人身を固くして座っているのなんか、つまらない。
どうせ自分にはその人たちの境地は理解できないし、会話だって成立しないだろう。
私たちは、同じ周波数の相手に、目の前の自分と共振した現実に、
鏡のように自分をうつして見て初めて、自分を認識することが出来るのだ。
だから、人と関わりたいと思う。だから楽しい。だから、成長していける。
知らなかったことを、分からなかったことを、もっとぐんぐん知っていける。
ずっと先に行ったどんな賢い人もどんな悟った人も、まだその先に、学べるものがあるようになっている。
どこまでも続きがある。
この世界はなんて凄いのだろう。神様って、なんて凄いのだろう。


フリースクールに通う娘は、通い慣れた道を未だ、一人で電車で通うことができない。
怖くて一人で電車に乗れないのだという。
「大丈夫だから一人で乗りなさい!」と怖い顔で圧をかけ、親の求める姿を強制するのは簡単なのだ。
それを私たちは、と呼んで当たり前にやって来た。
私自身もそうやって育って来た。
しかし問題は、どうしてそのような問題が起こっているのか、だ。

きっかけは些細なことだった。
ある日突然、どうしても私が夫と口をきくことが出来なくなって、家族の関係が硬直してしまってからもう、数年が経つ。
カウンセリングを受け始め、その原因を一つ一つ紐解いて来た。
以前ほどの苦しさからは解放されつつあるけれど、それでもこの家族は未だ、歪なままだ。
コロナでリモートワークが増えた夫と、もし二人っきりで家にいなければならなかったら。あの頃のことをそんな風に思い出すと、胸が苦しくなる。
私にはきっと、耐えられなかっただろう。
「ママがいないと一人で学校に通えない娘」がいることで恩恵を受けているのは私なのだ。
「自分がどう振る舞えばこの家族がうまくいくか、
子供は無意識にバランスをとって役割を引き受けちゃうからね」
この娘との共依存関係を断ち切るにはどうしたらいいでしょうか、と相談したら、カウンセラーの先生にはそう言われた。
私が娘に迷惑をかけている。本当に、優しい子なのだ。
それでも、今すぐにでもこの共依存関係をやめたいと奮起しても、スライドパズルのように、あっちを動かすにはこっちが動いていなければならず、
こっちを動かすにはあっちをどうにかしなければ、となって結局身動きが取れない。

「怖い、と思うことを全部、上げていってもらえますか」
カウンセラーに言われて私が、自分にとって怖いことを指を折りながら上げて見せたら、「病気以外、ほとんど全部、怖いんだね」と笑われてしまった。
まずは、なんでも怖い、責められる、と思ってしまう私のその恐怖を、取っていくこと。
今は湧き上がって来た恐怖を、自分で精査している段階だ。
どうしてそれを、怖いことだと思うようになったのか。一つ一つそれを掘り下げていく。
なんだそんなことか、と思えるか。恐怖を取り除くことが出来るか。
どうしても自分で出来ないものは分類して、次回のカウンセリングに持っていく。


施術をしてもらっている間、最近、ふと気がついたことがある。
恐怖をとってもらうと、恐怖の下には押さえつけ見ないようにしていた怒りが入っている、というのがセオリーなのだが、
私の場合、その怒りのさらに下から、クスクスムフムフクツクツと、笑いがこみ上げてくるのだ。
もしかして、本来の私とは、自分で自覚できている以上の想像を絶する笑い上戸なのではないか。

今の時点で既に、生活に困る場面があるほどのゲラなのに、
自分を掘り下げ解放していったらいったい、どうなってしまうんだろう。
でもそれもまた、楽しい。
染み付いた恐怖を取り除くのは、口で言うほど易しくない。それでも一歩一歩。
もうしばらくお世話になります、すみませんって、心の中で娘には謝って、
たとえ時間がかかっても、ひたすら頑張るだけだ。

人間は、かくも不思議で面白い。
未熟だから、未熟なのに一生懸命何かをわかろうと頑張っているから、
赤ちゃんが一生懸命、母親の顔から何かを読み取ろうと目を見開いてアーウーと話しかけるように、幾つになっても人間は、こんなに愛おしいし面白いのだ。



最近やっと、人に迷惑をかけてしまう未熟な自分を、それもまた一興、って思えるようになって来た。


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