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笑い上戸という病、ゲラという個性。

生来の笑い上戸である。
自分と同等クラスのゲラには、まだ会ったことがない。
この場面はまずい、というのは意外と予期できるものだ。
だから嫌な予感がしたときは、関係性のまだ浅い方には特に、
「実はひどい笑い上戸で。ご迷惑でしたらすみません」と告白する。
すると決まって、
「いいじゃないですか、楽しくて」
とニコニコされる。
しかし私のゲラは、そんな生易しいものではない。
そんな優しいことを言ってくれるのは今だけよ、と私は心の中でつぶやく。

小学校2年の頃だっただろうか。
その日、確か2時間目に何か面白い出来事があった。
内容なんてもう忘れたが、授業の間中、私はケタケタと笑い続けた。
どうしてもその面白かった下りが、頭の中で何度も再生されてしまって笑いが抑えられない。
自分の席からこちらを振り返って、一緒になって可笑しそうに笑ってくれていた友達は、一人また一人と減っていく。
なのにどうして自分は一人だけこんなに笑っているのか。
みんなが次第に白けていく中、一人狂ったように笑い続けるそのシュールな情景が可笑しくなってきて、また笑い出す。
休み時間になってお友達と話し始めると収まるのだが、また静かな授業時間が始まると、脳内再生、笑いすぎだろ自分、脳内再生、まだ笑ってるよ自分、という繰り返しが始まってどうやっても止められない。
給食を食べ終わってお昼休みも終わり、5時間目が始まってまたケタケタと笑い始めたとき、
とうとう隣の席の男子が、大変な冷ややかな声で、
「もうほんと、いい加減にしてくれない?」
といった。
以後、各地で様々なゲラ武勇伝を作る。

学校の先生に真顔で真剣に叱られたこともある。
電車の中で最寄駅に着くまで一人、カバンに顔を埋めて笑い続けたこともある。
先日、息子が何かの試験の申し込みをしているのだが、パスワードが間違っていると言われてどうしてもログインできないという。
見たら、パスワードは合ってるのだが、IDのところになぜか「パイナップル」と書いてある。
「その、パイナップルっていうのは何?」と聞いたら、
悔しそうに、「あ、間違えた」と言って私を睨んだ。
それで3日間、笑い続けた。
笑ってはいけない、笑い止まなければと思えば思うほど箍が外れたようになって笑いが止まらなくなる。
うんざりした周囲の顔。冷ややかな白い目。
いつだったか、だんだん自分が怖くなって来て、私は自分のこの病気について真剣に考え始めた。
しかし病院に行くとして、一体、何科に行けばいいのだろう。
とにかく自分でできるところまで制御してみようと、自分を分析し、私はその一つ一つに対処法を編み出した。

私の場合、笑い上戸という病が発症するのにはいくつかのパターンがある。
一つは、人よりも笑っている時間が長い、という問題。
何か面白いことがあって笑いが起きると、人は大抵、
「わっはっはっはっはっはっ」の「6はっは」ぐらいで笑い止む。
これを、笑いの滞空時間と呼ぶ。
この滞空時間は、海外に住んでいた時も周囲をよく観察してみたが、人種や文化に関係なく共通している。
しかし私の場合、この時間が人より長い。
だから笑い始めたらみんなよりも長過ぎないように、吹き出した瞬間から全力でブレーキを踏み始める。
するとだいたい「2〜3はっは」はみ出すくらい、なんとか許容範囲で笑い止むことが出来る。
もう一つは、絶対に笑ってはいけない場面で笑ってしまうという問題。
「〇〇さんて、ご存知ですか?実は亡くなったんですよ…」
なんて不意を突かれると、吹き出してしまう。
このとき私の内で起こっていることは、
人が死んだことが可笑しくてたまらないサイコパス性が蠢いているということではなく、
「敵襲!絶対に笑うな!」という突然の空襲警報が鳴ったことによる、極度の恐怖と緊張だ。
「笑ってはいけない」なんていう年末番組があったけれど、人は「笑ってはいけない」という縛りを課されると
いつもの数倍、出来事が可笑しく感じるという傾向がある。
つまり、この空襲警報に忠実に従うことに全神経を集中するのは、かえって危険だ。
〇〇さんは、どうして亡くなったのか。
事故なのか闘病されていたのか、ご家族はどう思っているのか。
その背景や周囲の心情に意識を振り分けるよう意識づけすることで、この問題も回避できるようになった。
そして最後の一つが少しややこしくて、これを仮に、オートマティックストーリー問題と名付けることにする。
何か面白いことを聞くと、ときにその光景が、妙にリアルに脳裏に浮かんでしまうことがある。
多くの人がそうなのかは確かめたことがないので知らないが、
私の場合その情景、登場人物がリアルすぎると、頭の中で人物や状況に肉付けが始まり、次々に展開していってさらに面白い方向にストーリーが、勝手に脳内で動き出してしまう。
これは、目の前の出来事に集中していないから起きることで、
例えば授業中であったり、友達とランチしているイマココの状況にしっかり集中していない。
そこで、始まった、と感知したら素早く頭の中の妄想機能を、意志の力で一時停止させることで解決させた。
これが終わって一人になったら、たっぷりその妄想の世界に浸かっていいよ、と自分を宥め慰めることで、
納得して、つまらない授業であっても、今すぐ帰りたいランチであっても、そこに自分なりの楽しみを見出して、意識を集中できるようになった。

そうやって対策を練ることで、病院に行くことなくゲラ武勇伝は少しずつ減っていった。
それは自分でもなかなか、自慢の取説であった。


先日、SNSで、知り合いに教えてもらった話。

今日FBで見た投稿コピペします。
皆さんに、読んでもらいたいと思って。

日本人が大事にしてきた教えのお話です。
以前、熊本の幣立神宮で正式参拝をさせてもらったときに、神主さんがこんな話をしてくれました。
「日本人が大事にしてきた叡智である『神道』には、あるものがないんです。他の宗教だったら考えられない、
決定的なものがない。なんだと思いますか?」
なんだと思いますか?
「教えがない」んだそうです。
教えがない宗教なんて、他に考えられます?
でも、教えがないから相手を裁かないし、ケンカせずに相手に合わすことができるんです。
教えがないということは、教えを守らなかったときに落ちる地獄もないということ。
地獄がないから、誰かに救ってもらうべく救世主も必要ないのです。
日本人は救世主を待たなくてもひとりひとりが内なる叡智とつながっていけると考えていたのです。
教えはない。救世主もいない。そんなの宗教じゃない(笑)。
そう、宗教じゃないんです。
「神道」は宗教ではなく、日本人の「生活」だったんです。
「では、教えがないかわりに、何があったと思いますか?」
神主さんの話にはまだ続きがありました。
「美しいか、美しくないかで判断する感性があったんです」
これが答えでした。
「その行為は美しいのか?」
これが日本人の生活(神道)の本質だったわけです。
_______
なぜジョブズは、黒いタートルネックしか着なかったのか?
ひすいこたろう 著
滝本洋平 著
A-Worksより
_______

火薬で爆発させる技術が日本に伝わったとき、日本人はそれを「花火」に使った。
江戸時代、お金を借りるときの借用書に、期日までに返せなかった場合は「お笑いくだされ」と、この一言だった。
「江戸しぐさ」の一つ、「うかつあやまり」もそうです。
例えば電車に乗っていて、ちょっとしたブレーキで電車が揺れて足を踏まれたとします。
こんなとき、どうします?
眉間にしわを寄せて「チッ」と舌打ちする?それとも、「イタっ!気を付けて下さい!」と直接言う?
江戸っ子は違ったそうです。
「そんな所に足を出しちゃってごめんよ」とか「足が長くてすみません」
つまり、踏まれたのにもかかわらず謝るのです。

薩摩(現在の鹿児島県)に伝わる「薩摩の教え 男の順序」というものがあります。
1、何かに挑戦し、成功した者
2、何かに挑戦し、失敗した者
3、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
4、何もしなかった者
5、何もせず批判だけしている者
これは、美しさの順序といっても良いでしょう。

正しいか間違っているかで判断しようとすると、「自分は正しい、相手は間違っている」とお互いが思っているわけですから、ケンカになります。
美しいか、美しくないかを基準にしたら、そもそも言い合うことさえも粋じゃない気がします。
生き様の美しさを魅せ合うようになったらいいですね♪
※魂が震える話より

電車の中でこの投稿を読んだとき、私は思わず携帯を握りしめたまま、次の駅で飛び降りた。
もう頭おかしい人みたいに涙が溢れてしまって、とても一人で電車に揺られている場合ではなくなってしまったのだ。
感情の起伏が人より激しいというのは、自覚がある。
それをずっと、困ったこと、扱いづらい、メンヘラ、直さなければ、と思ってきた。
でも、見方を変えれば感情の起伏とはつまり、心の喜びのことだ。

昔、加藤剛さんが演じたドラマ、大岡越前が大好きだった。
好きすぎて、ついには八丁堀界隈に引っ越したほどだ。
三方一両損、子争い、大岡名裁きにも色々あるけれど、そのどれもに共通しているのは正しさではなくユーモアだ。
投稿を読んで瞬間、私は、自分が本当は心底楽しい事が大好きで、
人と笑ったり、笑わせたり、面白いことを言う人と吸い寄せられるように仲良くなってしまう性格だったことを、ズドンと思い出した。
中学1年の時、最初の期末テストで友達と、テストのカンニングをし合って先生に捕まった。
テストの点数を多く取ることなんてどうでも良かったのだ。
ただ、今までただ隣に座っていただけだったその子と、急に仲良くなって、急に盛り上がってクスクスして、それが楽しかっただけだ。
それを、親や先生たちに説明することは出来なかった。
仕方なく、反省中の不良娘の姿になって、私はうなだれて座っていた。
私が絶望したのは、自分がカンニング犯として捕まったからじゃない。
どうしてカンニングなんかしたのですか?という問いに対して、
不良だから情緒不安定だからズルしていい成績をとりたかったから、ぐらいしか選ばせてもらえる回答がない、この世界のマークシート型の回答用紙に絶望したのだ。
どうして忘れていたんだろう。
どうして、忘れることなんて出来たんだろう。
私には、周囲の人が、自分とは違う彩度の、子供のクレヨン描きで描いた世界、
あるいはもっと記号のような、シンプルで簡素で、効率的で機械的な、つまらない世界を生きているように感じる。
この花の美しさを、この込み上げる可笑しさを、この場所に居合わせた幸せを、気づいてしまった秘密を、
あなたに出会えた感動を、あなたの中に眠るその素晴らしい長所を、
素通りしたまま生きるのが果たして本当に幸せなのか。
それが私が目指すべき、なるべき人の、姿なのだろうか。
私の中にはこんなにも豊かな世界が広がっているのに、
どうしてそれを否定してなかったことにして、それを抑え込む必要があるのか。
こんな風に生まれたのは、神様がそれを許してくれたからなのに、
どうして自分でないものになることに、こんな人生をかけて必死にならなきゃいけないのか。
ダメなところはたくさんあるとして、直さなければいけない箇所はたくさんあるとして、自由に笑うことすら許されないなんて。
あまりにも、あまりにも、自分が可哀想すぎる。
私は飛び降りた見知らぬ駅のベンチで、看板の影に隠れておんおん泣いた。
いつかに置いてきてしまった自分のために、たくさん無駄な我慢をさせすぎた嘗ての自分のために、トイレットペーパー一個分くらい泣いた。

ほんと、自分は何をやってるのかな。
昔から漱石が好きなのだが、最近の引越し作業で出てきた『坊ちゃん』を何気なくパラパラと読み始めたら止まらなくなった。

親父はちっとも俺を可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。
この兄はいやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。
俺を見るたびにこいつはどうせろくなものにはならないと、親父が言った。
乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が言った。なるほどろくなものにはならない。ご覧の通りの始末である。
行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。
(中略)
母が死んでからは、親父と兄と三人で暮らしていた。親父は何にもせぬ男で、
人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように言っていた。
何が駄目なんだかいまにわからない。妙な親父があったもんだ。

夏目漱石『坊っちゃん』より

こんな風に生きれたら、どんなにか楽だっただろう。
どうしてみんな、私を諦めてはくれなかったのだろう。
どうして私は、なれるわけない「みんなと同じもの」になんかなろうとして、必死になってしまったのだろう。
とっととこんな、ろくなものにはなれない自分のことなど、見限って手を離してしまえばよかった。

昔から、着物が好きだった。
着物と半襟と帯、帯揚げに帯締めと履物と。
着物の柄に、季節に、色や素材を合わせていくのは、一部屋分の模様替えをするくらいの創造性がいる。
楽しい。
でもいざそれを着ようとすると、あそこに行くのに三つ紋はないな、とか、この歳でこの色柄はどうなの、とか、
流石にこの着物にこの帯はまずい、とか考え始め、するともう身動きができなくなってしまって結局、まあ洋服でいいか、となる。
最近、Youtubeで自身のおしゃれを発信している女性がぶっ飛んだ着物のコーディネートをしているのを見かけて、なんて素敵なんだろうと目を奪われた。
そんな服、どこで売ってるの、みたいな複雑な服を着こなしている人。
フリフリの中世貴族みたいなお洋服、靴に髪型にメイクで全身完璧に決めてる人。
みんな、まだ若くていいな。キレイでいいな。
そう思って見ていたら、どの人も実は私と、そこまで変わらない年齢だった事が分かって度肝を抜かれた。
私の人生とは、何とつまらないんだろう。
私は何のために服を着ているのか。
会う人すれ違う人みんなから、”ちょっとだけ素敵””そこまで変じゃない”、の、ちょうど中間の採点評価をいただくためか。

坊ちゃんでもおでん様でもナウシカでもつぐみでもヒソカでも白鳥圭介でも五条悟でも、まあ何でもいいのだけど、
私たちはいつも、どこか社会からはみ出してしまう異端児に魅了される。
それはなぜか。
みんな本当は、そうなりたいから。
自由になりたい。
だって、本来はみんな、生まれた時は、自由だったから。

先日、兄妹弟喧嘩が高じて妹弟から殺害予告を受けた、と告発する人の動画がYouTubeに流れて来て、吐きそうになった。
なんでもその発信者は、妹をネタにチャンネルを運営していたらしいのだが、
本人は妹の将来の可能性を広げてあげるために純粋な愛情でやってあげていたことを、弟妹から、自分たちを金儲けに利用していると罵られ、殺害予告を受けるに至ったのらしい。
両親を含む家族全員から絶縁されたそうで、被害者よろしく、自分は家族に誤解されているのだと訴えていた。
自分は妹のためにやったのだと、本人は本気で思い込んでいるのだろうが、
兄にパラサイトされた妹はたまったものじゃない。
妹の背中に大きな兄が張り付いて、二人羽織、妹のために何かをしてくれる。
余計なお世話もいいとこだ。
人生は一人に一個。
この平等性だけは何を持ってもひる返らない。
まだ若いんだから、人の人生になんて便乗してないで、根性入れて自分の人生をしっかりやれよ。
自分は半人前のプー太郎のくせに、妹のために生きてあげている、なんて傲慢もいいところだ。
こうやって簡単に私たちは誰かに自由を奪われる。舵を盗まれる。恐怖と罪悪感で雁字搦めにされる。気づかない。
兄が殺したいほど苦しい、ここから抜け出したい。
苦しいなら、ただやめればいい。何も血を持って償わせる必要なんてない。
背乗りされると、背乗りされた側は、生きたまま死んでしまうのだ。
内側がもう、死んでしまって抜け殻になっている人もいる。
内から死ぬ前に、苦しい、と気がつけた人は幸運だ。
兄は私のために。母は私のために。父は私のために。
だから、その期待に応えて、私は。
相手のパラサイトに一緒になって洗脳されてしまった人は、苦しいと感じる感覚も麻痺して、憎しみを忌み封印して、それを感謝すべき愛なのだと錯覚してしまう。
ベルトコンベアに乗ってどこまでもどこまでも、内から腐るまで人生の時間を使い切ってしまう。
それがいつか、自分でも説明のつかない憎悪に変わる。
今までは、そういうことが当たり前で社会が動いていた。
でも今、気がつく人がどんどん増えている。

あげればキリなどないほど、実は世界中で叫び声が上がっている。
私たちはきっと、もうこれ以上、嘘をつけないのだ。我慢の限界なのだ。
だから、自ら出自を明かす。
それでも悪手を繰り返してしまう人は、今までやってきたその手練手管が、これからも通用して当たり前だとどこかで過信している。
その今の在り方で手に入れたものに、固執している。
全ての人が、自らそのかぶっていたネコもハリボテも脱ぎ捨てて、素性を明らかにせざるを得ない衝動に駆られている。
もう、うんざりなのだ。
誰かが鉈を持って入ってきて、誰かを糾弾し、壊してくれる必要なんてない。
こちらをいい人、あちらを悪い人、と分類して裁く必要もない。
デビ夫人をいくら言論を駆使して糾弾したって、本人にはなぜ自分が責められるのか永遠に理解できないだろう。
ただポツンと、ド派手な身なりのままその場所に取り残されていくだけだ。
本当のことを前にして、ハリボテはただハリボテだったと白日のもとに曝される。
それで世の中が変わっていく。
私たちの価値観が変わり、それが文化に浸透し、今までの家族の在りようも変わっていく。
今のこの状況がやってくる、と私が感じたのは今から多分、3年ぐらい前のことだ。ということは、今、私の頭の中で描いているきっとこんな世の中がやってくる、という光景が目の前に現れるのは、
あと1年か、2年か、あるいは数カ月後か。
とにかく間違いなくそれは古今東西津々浦々、私たちの足元にやってくる。
ニュースになるような社会問題だけではない。
今まで私たちが当たり前に営んできた嘘つき家族ごっこは、ここで終わりだ。
私のハリボテが崩れたら、メイクも下着もお腹周りをふんわり隠す洋服も剥ぎ取られ、在られもない私が現れるだろう。
おバカで能無しで貧乏で変態で、赤ちゃんみたいにわがままで、クズみたいな性格の、カンニング不良娘の私が出てくるだろう。
それを、怖れない覚悟。
必要なのはそれだけ。
抵抗しない。
なぜなら私はもうこの、嘘つき家族に嘘つき綺麗事ばっかりの、看板だけ見め麗しい欺瞞だらけの社会に、ウンザリだから。
みんなで本性を出し切って、みんなで醜い本性を見せ合う。
なんて清々しい。
考えただけでホッとする。

年末、親に絶縁すると言われた。
こちらにはもう随分前から、積もりに積もった思いがある。
そうですか今までお世話になりました、というと今度は、
本当に絶縁なんてするとは思わなかった、ちゃんと話し合うべきだ、と言ってきた。
散々話し合った結果こうなったのではなかったのか。
私にはもう話すことは何もないと言ったら、あれやこれやの挙句、
私の夫に、「いよいよ娘は頭がおかしいので、どうか病院に入れてくれ」と言ってきた。
今までは、こういう妄言にいちいち振り回されてきた。
まな板に打ち付けられ、捌かれる前に全身をくねらせ暴れる鰻のように、
罵倒を始めたと思ったら、老いた可哀想な被害者へ、猫なで声を出したかと思えば、心配が余って取り乱した健気な親へと変化する。
その根底に共通しているのは、「自分は悪くない」という思いだ。
本人は自分を善良で、何かを成し遂げた立派で権威ある人間だと思い込んでいる。
その背景にあるのは、自覚のない激しい劣等感と、拗らせた嫉妬だ。
私はその姿を見て、鬼滅の刃に出てきた喜怒哀楽に変化する半天狗という鬼を思い出す。

幼稚で未成熟な母の人間性を今こうして眺めていると、幼かった自分がこれにこうやって二人羽織され、振り回され苦しめられていたのかと、改めてなにか遠い気持ちになる。
しばらくは、孫の勉強が忙しいとかなんとか言い訳をして、親族にも事実をごまかし、なんとかこの完璧を装って来た家族のハリボテが崩れてしまったという現実を先延ばしにするだろう。
しかし来春になったら?
元サヤに戻ってこない娘。
自分の作り上げた麗しい、仲良し家族ファンタジー劇場に、メインキャストが戻ってこない。辻褄が合わなくなる、ヤバイ。
となってまた、今回同様、暴れ出すのだろう。いつまでたってもその繰り返し。
芯から、「苦しい」と気がつくのはいつだろう。
実は屋台骨の主柱だった悪役の汚れ役である私がいなくなったこの劇団に、いよいよ修羅場がくる。
残りたいと言ってくれる団員は、一体何人いるのだろう。
それでもまだ気づけない、娘が悪い、娘をなんとかしなければ、とうとうこれこそが病気だからもう救急車を呼ぶ
などと言い出しても、私は黙ってこの絶縁を継続するばかりだ。

自分が一番認めたくない自分の姿を、他人だと言って非難すること。
心理学でいう、これが投影という現象だ。
頭がおかしい、狂気だ、と言われたとて、実際頭がおかしいのだから何も気取って、いきり立って反論する必要なんてなかったのだ。
そうなんですよ、頭おかしいんですよすみません、で良かったのだ。
私なのだ。
アホであることを、認めたくない。狂気であることを。
みんなと同じになれなかったことを。
傲慢で、意地が悪く、浅知恵で策を弄す。誰かをコントロールして優位に振る舞いたくて、その実中身は、激しい劣等感と嫉妬に打ち震えている。
認めて欲しくて泣いている。
父だと思っているもの、母だと思っているものは、全部自分だ。
何回やっても、何回誰かに出会っても、結局その人の中に共依存を見る。
父や母と、同じ形の傷を持った人が現れる。
私はその傷を凝視する。

自分の中を厳しく精査していって、反省して精神性を高めて清廉潔白になって。
そしたらいつか、完全無欠とはいかなくとも、それなりの自分になれるのかと思ってた。
優しくない自分はイヤだった。
常識的で、いい人じゃない自分じゃあ、怖かった。
出来るだけ、完璧なものを求めていた。
誰からも嫌われない、とりあえず責められようのない自分になりたかった。
でもきっと、探しても求めても他の人が畏れおののくほど努力しても、素晴らしい精神性の私なんて現れない。
だとしたら、私は一体、何を求めて生きるのか。
やっぱり私は人間が好きで、面白くて、興味深くて、
なんで世の中はこんなことになってんのか、この深い深い世界を、もっと深く知りたくてたまらない。

父から「お前の言葉に不信を抱いた」と言われたとき。
私を酷い言葉で罵倒していた母から、また突然手のひらを返したように「夏休みに遊びに来ませんか?」と言われたとき。
瞬間湧き上がったのは怒りではなく、ワクワクした気持ちだった。
好奇心
これが私の生きる指針だとすれば、私はやっぱりもう、会う人会う人母と同じトラウマの、似たような人ばかりが現れて、代わり映えしないトラブルに巻き込まれて、何度やっても学習せずに、
悪手を重ねて落ち込んで、っていうこの周波数を抜け出したい。
心が死んでしまった両親のような人たちばかり集まってきて、なんなんだこの嘘ばっかりの世界は、って呆然として、
なにかほんとのものを探し回って彷徨うような、この周波数とおさらばしたい。
もっと違う種類の人たち、もっといろんなひとたち、
別のいろんな傷を持った、いろんな愚かさ、いろんなずるさ汚なさ、いろんな怯え、そこから見つけ出した、
尊敬とか感動とか、なんかそんなものの間を、縦横無尽に楽しんでみたい。

子供たちは今も、この家族に脈々とつながる病理が結局どこに向かうのかを、
その光る眼でじっと見据えている。
私だって少し前まで無自覚のまま、自分とは比べようもないほど美しく、才能と可能性に溢れた子供たちに妖怪のように二人羽織していた。それこそが、美しいあるべき親の愛情だと思い込んで、歯を食いしばってそれに邁進していた。
未熟なのだ。
彼らはじっと、私の背を見ている。
愛とはなんですか。
生きるとはなんですか。
あなたが「ないない」と騒いで怒って地団駄踏んでいた愛を、
それならあなたは持っているのですか、と。

娘とときどき、お話作りのゲームをする。
二人で暇つぶしに考えついた遊びなのだが、やってみるとなかなか面白い。
例えば一人が、「ある森の中に、真っ赤なキノコが生えていました」という。
次の人はその、「真っ赤なキノコ」から、毒キノコや何か怪しい気配を汲み取って、そのキノコを基軸に、次の一行のストーリーを考える。
「森に旅人がやって来ましたが、その旅人はキノコをまたいで行ってしまいました」
お互い、ぼんやりと考えついた展開があって、それが一行ごとに思い通りにいったり裏切られたりする。
オチをどうするか。互いの思いを探りながら、無駄に登場させてしまった出来事や人物を、なんとか協力して伏線回収していく。
ストーリーはどこに向かうのか、お互いに分からない。

「あ、ちょっと今、お話思いついちゃった」
そういって娘が、自分のiPadを持って自室に入ってしまう。
アイデアが降り注いて来た瞬間の人というのは、頭の上が光って見える。
ゾーンにつながる。
すると、自分の中の引き出しに入っていたものがすごい勢いで総動員され、そのアイデアを補完していく。
それは人智を超えた、神の御技だ。
細胞がプチプチと弾ける懐かしい音が、今にも聞こえてきそうだ。
いいなあ。羨ましい。
それは私がずっと、探しているもの。

娘が書き上げたその作品を読んで、私は嬉しかった。
娘が学校に行けなくなってもう何年か経つけれど、
その宙に浮いた時間に、1秒たりとも無駄な時間などなかった。
彼女はたくさん悩み感じ、ちゃんと苦悩している。
大切なのは、どう苦しみ悩み考え、その引き出しに何を詰め込んで生きて来たか、だ。


最後に、まもなく引退する私の尊敬する師匠にならって、
ニーチェの言葉を引く。

世界には、君以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。
その道はどこに行き着くのか、と問うてはならぬ。
ひたすら進め。



何度聞いてもシビれる。
口笛の山下こと、山下毅雄による往年の大岡越前オープニング。



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