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34歳、初めて髪を伸ばす

「髪を切られるのが嫌だった、ってことではないの?」

と、美容師さんは言う。初めて来た美容室だとはいえ、そもそも髪を切りに来ている。もともと美容室に行くのも好きで、月に1回は行っていた。切られるのは嫌ではないはずだと思う。

「髪が伸びるのも、時間がかかりますからねえ」

確かにそうだ。そんな美容師さんの髪はぼさぼさで、自身の髪型は無頓着なようだ。1人で美容室を切り盛りしていて、お子さんの送り迎えや家事をされていることが、何となく店の前にある自転車や置物などから分かる。

「これまで美容師さんにされて嫌だったこととかありますか?あれば知っておきたいんです、お互いのために」

お互いのために。すこし仰々しい気もするが、そうですねえ、と自身の美容室歴について振り返る。私は色んな美容室や理髪店を転々としていた。

これまでの髪型

人生の大半を、何の変哲もないショートカットで過ごしてきた。メンズのショート。襟足やもみあげは刈り上げてもらう。

好んでというよりは、髪質のせいだった。毛量が多く、髪が伸びると手に負えなくなる。柔らかな直毛なので、トップの毛はぺたんとなり、顔周りの毛が膨らんでしまう。うまくセットできない。『トップはボリュームを持たせて顔周りは抑える』というトレンドの逆をゆくのが、学生時代のコンプレックスだったりもした。

大学時代に一度パーマをかけたが、友人には「新進気鋭の演歌歌手みたい」と言われ、当時の美容師さんにも「なんか変な癖がついたみたいですね」と言われてしまった。自分がパーマをかけておいて、と思った。そんなこんなで、うっとうしい部分を短く切るか刈り上げるかして、何事もないかのような短髪で過ごすことが多かった。

伸びたら手に負えなくなる、だから切る、ということで美容師や理髪店には月に1回行く。気になる部分は切りましょう、と髪はどんどん短くなる。
「2,3か月もすれば伸びてきますから、思い切っていっちゃいましょう」とバッサリ刈った美容師さんもいた。

実は、髪が短いとかえって手に負えなくなる。生え癖や寝癖がより際立ち、美容室を出る時が髪型のピークのような感じがする。また、髪が伸びるのを待つ時間はなかなか難しいものだと思う。人の2,3か月は大事ではないのか、と今なら突っ込むかもしれない。

美容師さんの話

そもそも美容師さんとの関わりも苦手だった。プライベートに踏み込まれるのも嫌だし、彼女がどうだとか売上がどうだとか、ゴシップみたいな話にもあまり興味がなかった。

一番苦手なのは、精神科の相談員であると明かしたときに、身の上話や相談をされることであった。「うちの祖母が…」「彼女が精神的に…」という自身の話なら百歩譲るとして、他のお客さんのこと、近隣の店舗の店員さんの言動についても相談されることがあった。

「斜向かいの店主さんが、はじめは良い人だったんやけど…」「常連さん、飲酒運転で逮捕されて…」知らない誰かの私情。私が相談員であることを知って話してきている分、何とかしてほしいという気持ちも乗っかっていて、傾聴せざるを得ない。

うんうんと聞きつつも、他のお客さんに客の個人情報を話す人なんだな、と私の中では信用を失っている。相談をするならお金を払ってもらいたいくらいだと今更ながら思う。そういえば、私はその場にいない誰かの話をされるのがそもそも好きではないのだと思う。

もちろん、素敵な美容師さんもたくさんいた。ある人は雑誌に取り上げられたちまち予約が取れなくなり、ある人は結婚を機に遠くの地で開業した。ある人は、いつもニコニコ穏やかだったが、他の店員さんにも誰にも言わず飛んでしまった。要は、自分の美容師運がないか、何か期待しすぎなのかもしれないと思った。

髪を伸ばす

「やっぱり、本当は切らない方がいいんじゃないですか?」

と、初めての美容師さんは言う。静かであまり干渉してこない美容室を選ぼうと思った時に、サイトで見た「寡黙な頑固おやじのような接客をしています」という言葉が気になり選んだお店だった。バッサリ切りたくなる気持ちも分かるんですけどね、でもまあ長い目でやっていきませんか、と手際よく首元にタオルやカバーをかけながら言う。

話し合った結果、嫌になるまで髪を伸ばしてみようということになった。当たり前だが、切るのは簡単で、伸ばすのは難しいらしい。「お互い納得しながら進めていきましょう」とのことだ。『美容室に行った日がピーク現象』を鑑みると、今後のことを考えた、信用のおける発言なのかもと思った。髪を切ることは刹那的なものかと思っていたら、もっと長い目でみるものらしい。34歳になって初めて知った。

毎月その頑固おやじのお店に通い、半年近く経った。今までの人生で一番髪が長くなった、と言っても、前髪をおろせば目にかぶるくらいなのだが。色んなワックスやジェルを試すようになり、Youtubeで乾かし方や取り扱い方を学び、ヘアアイロンを買って試し、トリートメントやドライヤーをきちんと活用しないと髪がまとまらないと気づいた。他にも『髪の毛ににおいがつく』を実感した。

こんなことはみんな中学生や高校生の時にすませているとも思うが、今まで通ってこなかったのだから仕方ない。就活や転職など、もっと身だしなみに気を遣う機会はあったと思うが、それも過ぎたことだ。髪を切ってもらっている間もあれこれ考えるが、つい寝入ってしまう。美容師さんのはさみの音は、人一倍静かで軽やかだ。

帰り際、5月の予約を取ろうとした時、「ひょっとしたら日程を変えてもらうかもしれなくて」と言う。第三子の出産予定日が近いらしい。おめでとうございます、それは優先してください、とお店を出る。美容師さんが何を好きで、何が喜ばれるかは分からないが、何か贈り物でもしようかな、と思う。

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