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トイ・ストーリー4に感動した人間の話

前置き

 近々『トイ・ストーリー4』が金曜ロードショーで放映されるということで、早くもTwitterのトレンドでは本作を酷評する発言が多々見られるようになりました。
 ほんの小さな赤子であった頃から『トイ・ストーリー』シリーズを観てきた私は、『トイ・ストーリー4』を劇場で観た際、本当に感動し号泣してしまいました。しかし、その後ネット上では激しい酷評の嵐!戸惑いましたが、本作の展開に疑問を覚える方の意見も「そういう風に観れば確かにそうだなあ」と思えるものでした。
 しかし、私はめちゃくちゃ感動したんですよ!!!そこで、私自身が『トイ・ストーリー4』のどのような点に感動したのかをこの酷評目立つインターネットに残しておきたいと思います。
 今回は、本作が放映された2019年当時、私が活動していた場所に寄稿したレビューをほとんどそのままnoteに載せます(そうしないと話が上手くつながらないので)。同年に放映された『天気の子』『JOKER』のレビューの後に『トイ・ストーリー4』が語られるという構成になっておりますので、もし興味があれば通しで読んでいただけると意図が伝わりやすいかと思います。

2019年は映画がスゴかったネ!!

序文

▼今年は本当にびっくりするくらい映画が豊作でした。一部のオタク(AKIRAオタク、ブレードランナーオタクなど)にとって非常に重要なこの2019年に、これほど多くの名作が生まれたことにまずはお祝いを申し上げたいと思います。さて、今回は“自らの人生を自ら選択する”というテーマに沿って、今年放映された3つの名作映画について語っていきます。このコラムは非常に「主観的な」感想をただ羅列しているだけですので、「こうやって観るのが正しいんじゃい!」と言いたいわけではない、ということを先に断っておきます。また、容赦なくネタバレをしていきますので、まだ観てない!という人は今すぐ劇場に行って作品を観てからこのコラムを読んでください。

天気の子


▼まず『天気の子』はご存じ『君の名は。』で有名な新海誠監督の最新作です。内容的には『君の名は。』よりもだいぶ振り切ってしまった作品になっています。前作は主人公が大災害発生前にさかのぼり、頑張って住民の被害を阻止する、という何ともおめでたい物語となっています。こうした内容から、「災害による被害をなかったことにするとは何事か!」というお怒りの感想が放映当時よく見られたものです。私もそのような感想を抱き、つくづく頭のハッピーな映画だな、と思っていました。しかし、新海監督は、「前回怒っていた人たちをもっと怒らせよう!」ということで、超問題作『天気の子』をこの世に出してしまいました。超問題作、というのも、『天気の子』ではむしろ主人公・帆高が自分の勝手で災害を起こして(厳密に言うと継続させて)しまいます。好きな女の子を犠牲にするか、東京という巨大な都市に暮らす大勢の人々の生活を犠牲にするか、どっちを選ぶ?となったとき、帆高は自分自身の気持ち、つまり、たった1人の女の子の方を優先します。東京は水没してしまいました。洒落になりませんね。

▼しかし何を犠牲にしても自分自身の大切なものを絶対に選び取るその姿勢、最高じゃないですか!帆高がヒロイン・陽菜を選び、2人で空を浮遊するシーンで私は思わず、「新海誠、行くところまで行ったな」とニヤリとしてしまいました。超爽快でした。ただここまで『天気の子』が超爽快な映画になれたのには理由があります。それは、”社会的な正しさ”の描き方が抜群にうまかったからです。映画全編を通して、帆高の行動は社会的には正しくないよね、ということがリアリティを持って強調されています。特にそれが如実に表現されているのが、帆高の行動に対する警察の反応です。帆高は陽菜のもとに行くために、非常識かつ突拍子もない様々な行動をとりますが、それに対して警察をはじめ周りの大人たちはデフォルメ一切なしの極めて常識的な視点から帆高の異常性を指摘します。もう少しおめでたいアニメ作品だと、無茶をする主人公の周りの”大人”の視点もややフワフワしていますが、『天気の子』では帆高を抑圧する”社会”や”常識”というものを容赦なくリアルに描写していきます。また、実在の企業の広告が立ち並ぶ背景がそのリアリティを補強するのに一役買っています。こうした”対抗勢力”がしっかり描写されているからこそ、そのカウンターとなる帆高の主張や選択がより鮮烈に我々(というか私)の心に響くのではないでしょうか。さらに、帆高のヤバさに対して観客が心の中で抱いたツッコミを作中の大人キャラが代わりに言語化することで、よりストレスなく彼に没入できる、という効果もあります。観客が抱くであろう「何やってんだコイツ」という常識的な批判やモヤモヤを、作中である種肯定し解消してあげることで、観客の関心は常識や論理を超越したところにある帆高の心情に向けられることになります。そうした仕掛けが『天気の子』は抜群に巧みでした。そしてこれほどまでに利己的で反社会的な物語を非常に清々しく美しく肯定的に描き、あまつさえ『君の名は。』で大注目されている中全国ロードショーしてしまったのですから、なんだかもう笑いが止まりません。

JOKER


▼笑いが止まらない、と言えばやはり『JOKER』です。『JOKER』も『天気の子』と同じく、抑圧的な社会を振り切るという作品ですが、さてこれら2作品は同じような作品だと言えるのでしょうか。『天気の子』の主人公・帆高は自分勝手な選択をしたとはいえ、まだ前向きな感じがしますね。一方『JOKER』の主人公、アーサーはとことんまで堕ちていきます。しかしこの堕ちていくアーサーのなんと清々しいことか!(笑)

▼この映画では階段が非常に効果的な役割を果たしています。アーサーが苦しい日常を送っているシーンでは、曇天の中長く急な階段を一歩ずつしんどそうに登っていきます。観ているこっちもしんどくなってきます。アーサーは”登って”います。それなりに適応しようと頑張って生きているわけです。しかしとても苦しい。それにアーサーの日常シーンはややありきたりで退屈です。そこまでブッ飛んだ悲劇が起きるわけでもなく、アーサー自身そこまで理解不能なブッ飛んだ人でもありません。(そこらへん、『ダークナイト』のジョーカーが好きな人にとっては不服だったらしいですが、『JOKER』では描きたいものが違うので仕方がないことです。私はむしろ『JOKER』を観た後初めて『ダークナイト』を観たクチなので、バットマンがアホなコスプレおじさんにしか見えず悲しい思いをしました。『JOKER』を観た後だとブルース・ウェインに対して「そんなアホみたいなマシン作ってねえでその金を福祉施設などに寄付しろバカ」としか思えなくなってしまうので鑑賞する順番は考えものです。)しかしアーサーが我々にとって了解可能な苦痛を味わっていることで、我々はアーサーに多少なりとも感情移入していきます。そして退屈で陰惨で閉塞感満載の日常生活シーンは観る者にどんどんストレスを与えていきます。

▼そこであの証券マン射殺シーンが来ます。これだけでもかなり目の覚めるような素敵なシーンではありますが、映画中盤において非常に印象的なのはやはり階段のシーンです。ピエロの職を解雇されたアーサーがタイムカードの機械をブチ殴って壊し、職場から颯爽と立ち去るのですが、今度は彼は職場の階段を”降りて”いきます。その階段は太陽の光でいっぱいに照らされ、ドアの向こうはことさら光り輝いています。職を失ったというのにこの清々しさはいったい何なんだというくらい明るく朗らかなシーンです。そして極めつけは彼がジョーカーになり、前述した長く急な階段をこれまた”降りて”行くシーンです。アーサーだった時のように、一歩一歩踏みしめていくのではなく、軽やかに踊りながらジョーカーは階段を降りていきます。下へ下へ向かっているというのに、太陽はさんさんと輝いているし、楽しげな音楽は流れてくるし、もう気分は最高です。ここで観客の溜まりに溜まったストレスは一気に解放されていきます。だからこそこの映画は非常に危険なのです。

▼憧れだった大物コメディアンに向かってジョーカーは「喜劇とは主観だ」と言います。彼は、何も与えてくれない上に”普通”でいること、従順に適応することを強要してくる社会を当てにするのをやめ、自分自身の主観に基づいて生きることを選択します。もはや社会など当てにしていないのですから、規範や常識など知ったことではありません。

▼こうした部分は『天気の子』と似通っていると思われます。しかし『JOKER』の方がもっと複雑です。何より帆高には陽菜がいましたし、サポートしてくれる大人もそれなりにいました。加えて、帆高は自分自身の選択に対して真っ向からその責任を負うという選択までしてみせました。(”大人”である須賀は、帆高が何を選択したところで大した影響力はない、思い上がるな、というようなことを語りますが、これはそのまま批判の言葉としても取れますし、救いの言葉のようにも取れると思いました。気負わず自分のやりたいことをやれ!というような…。実際のところどうなんでしょう?) とにかく『天気の子』では、帆高はいろいろと追い詰められていたとはいえ、自分自身の選択に対して100%の自負を持っています。これは非常に素晴らしい精神的成長と言えるでしょう。というか、そもそも社会規範や常識などに振り回されず、自分自身が納得できるような自分なりの選択をする、というのは人生において最も重要で最も難しいことです。それが出来た帆高は本当に素晴らしいですし、そんなことが出来るヤツはそりゃあ”大丈夫”ですよ。一方ジョーカーも似たような形で選択をするわけですが、彼の場合本当に自ら望んでこのようになったかと言われれば正直言って微妙です。象徴として自らの意思に関係なく群衆に担ぎ上げられるラストシーンはそのことを如実に表しています。さらに先ほどから述べているように、『JOKER』では、いろいろな価値観があべこべです。そしてアーサー自身も、笑っているのに泣いている、というあべこべなキャラクターです。『JOKER』では、悲劇も喜劇も表裏一体であり、確かなものなんて何もないよ、というところまで描いているような気がしてきます。大体この映画自体、本当にジョーカーの身の上話なのかも怪しいところです。(『ダークナイト』でもジョーカーは嘘の身の上話を何パターンも披露してくれました。)『JOKER』を観ると、とにかく何もかもが信用ならない、ということが感じられてきます。そこでやはり「喜劇とは主観だ」に立ち戻ってくるわけです。

トイ・ストーリー4


▼これまで社会に抑圧されてきたある種の”弱者”たるキャラクターたちの作品について語ってきたわけですが、同じく今年放映された『トイ・ストーリー4』はずいぶんと趣向が違ってきます。まず、主人公のウッディは他2作の主人公と比較して、それなりのキャリアと経験を持っています。与えられてきた社会的役割をしっかりと全うし、また、誰かに切実に必要とされてきた過去を持っています。彼はおもちゃですが、人間に例えるとちょうど脂ののった中年のおじさんというイメージが実にピッタリです。

▼ウッディの役割はこれまで様々な危機にさらされてきました。例えば第1作目ではバズという新しいおもちゃが来ることで、アンディの一番のお気に入りという立場から引きずり降ろされてしまいます。また、第3作目ではアンディが成長してしまい、”アンディのおもちゃ”という役割そのものが消失してしまいます。こうした危機に見舞われるたびに、ウッディは頑張って新たな自分の役割やアイデンティティを見つけてきました。今作でも大筋はそのような感じですが、もはや次元が違っています。

▼ウッディが第4作目でどのような変化を遂げたのか、まずそのステップのうちの1つが、新しい子ども、ボニーとの関係の終焉です。ウッディはアンディのもとを離れ、ある1人の小さな女の子のものとなります。それがボニーです。しかしボニーのもとには既にリーダー役を担っているおもちゃがおり、また、ボニーは次第にウッディを必要としなくなります。その代わり、新しくゴミで作ったおもちゃのフォーキーを溺愛します。アンディの時と違い、ボニーはまだ子どもですが、ウッディには全く見向きもしなくなります。ウッディ、めちゃくちゃ可哀想です。しかし子どもというのは実際こんなもんです(2022年追記:そうじゃない子どもも大勢いるというのを本作への批判的なツイートから知りました。私の視野が狭かったです)。そうでなくても例外なくみな大人になってしまうのですから、いつか別れが来るのは当然の成り行きです(2022年追記:ここも私の視野狭ポイント。おもちゃと別れていない大人も大勢いるし、成長したからと言っておもちゃと別れなくてもいいじゃないかというスタンスがあることを最近知りました)。ウッディは子どもに愛されていましたが、それはもはや過去のものとなってしまいました。そこで、もう1つの大きなステップが、アンティークおもちゃのギャビー・ギャビーとのエピソードです。ギャビー・ギャビーは音声を出すボイスボックスがもともと不良品だったため、子どもに愛された経験が1度もありません。これまでお役目を果たしたことがないのです。そんな中、完璧なボイスボックスを持つウッディが現れ、彼女はそれを譲ってくれと懇願(物理)します。ウッディはギャビー・ギャビーの気持ちを汲み、ボイスボックスを譲ります。ボイスボックスは収納されている位置からしてまるでおもちゃにとっての心臓です。そんな大切なものをどうしてギャビー・ギャビーに譲る気になったのか?それはウッディがこれまで子どもに愛された幸せな経験を持っているからに他なりません。子どもに遊んでもらえるということがいかに幸せであるかを知っていたからこそ、ウッディはギャビー・ギャビーにもそれを味わってほしいと思い、ボイスボックスを譲りました。

▼終盤、ギャビー・ギャビーはボイスボックスを使うことで迷子の女の子に自分の存在を気づいてもらえます。女の子は、あなたも迷子なのね、私がいるから大丈夫、とギャビー・ギャビーに声をかけ、2人はお互いがお互いの支えとなりながらウッディのもとを去っていきます。このシーンでは、本作のメッセージのうちの1つがはっきりと表現されています。それは、”誰かの支えになることが、自分自身の存在の支えとなる”ということです。ギャビー・ギャビーはウッディからおもちゃとしての魂を継承し、女の子の支えとなることで自分自身を確立させることが出来ました。さて、ウッディはどうでしょうか?ウッディは最終的に、1人の子どものところにとどまる生活をやめ、フリーランス的に活動することを選択します。彼は大勢の子どもたちと遊び、その傍らでたくさんのおもちゃたちを子どもたちのもとに送り出してあげます。つまり、ウッディは今まで自分が担ってきた役割を他のおもちゃたちに譲り、それを守るという新たな役割を獲得しました。これは大きな精神的成長とステップアップであると言えるでしょう。ちょうど人間の人生も大体中年期以降は”継承”が重要になっていきます。アンディやボニーとの素晴らしい思い出と、そこで培われたおもちゃとしての矜持があったからこそ、ウッディはボニーのもとを離れ、自分以外のおもちゃをサポートする役割を選択したのではないでしょうか。また、こうしてウッディ自身も自分の居場所を見つけ、”迷子”から脱却することが出来たのです。

3作品のまとめ


▼『天気の子』、『JOKER』、『トイ・ストーリー4』という3つの作品について語ってきましたが、いずれの作品にも共通するのは、作中で主人公が自分の人生に関わる重大な選択を自己に立脚して行っている、ということです。『天気の子』では、社会的な正しさに関係なく、自分自身の切実な願いに基づいた選択を行い、そしてそれを背負うという選択まで行っています。『JOKER』では、何もかもが冷たく信用ならない世界の中で、主観的に面白いと思った行動をしていく、という選択を行っています。また、『トイ・ストーリー4」では、これまで自分自身が培ってきた経験や大切な思い出をもとに、新たな世界を切り拓くという選択を行っています。この3作の主人公が我々に示してくれたのは、どんな状況にあっても自分自身によって道を選択することが出来る、ということではないかと私は思いました。力のない子どもであったとしても、誰かを大切にしたい、という願いを持つことは出来ます。すべてを失ってしまったとしても、主観的に物事を喜劇ととらえることも出来ます。これまでの役割を失ってしまったとしても、自分が積み上げてきたものをさらに発展させて全く新しい選択をすることも出来ます。結局一番大事なのは自分だよね、ということです!

▼でも、正直言うと私は『トイ・ストーリー4』を観て本当にホッとしました。子どもの頃から今までずっと、おもちゃに対して申し訳ない気持ちを持っていたからです。私は成長しておもちゃへの興味を失っていきましたが、その一方で「ずっと一緒に遊んであげられなくてごめん…(泣)」と思っていました。何か/誰かの幸せをずっと背負い続けるというのは本当にしんどいし絶対に無理なことなんじゃないかと思います。いくら昔お気に入りだったからと言っても、ずっとそのおもちゃとは遊んであげられないのです(2022年追記:ずっと遊んであげられる人もいるらしい)。だから、ウッディが自分から行動を起こしてくれて本当にホッとしました。現実のおもちゃは自分から行動したり選択したり出来ませんが、人間なら出来ます。私は時々、帆高やアーサーのように理不尽な目に遭っている人たちを見てどうにかしてあげたい!という気持ちに駆られます。ですが、やはりサポートには限界があります。他者にのめり込みすぎると自分自身の人生がボロボロになってしまいます。だから私はなるべく生きている人みんなが自分のために自分から行動を起こせるようになってほしいと思っています。そして自分自身もそうでありたいと思っています。ですから、そういう行動が起こせる人の物語を見ると非常に元気づけられます。ジョーカーは破壊的な方向に行ってしまいましたが、それでも「喜劇とは主観だ」というところにたどり着いて行動を起こしたということは、私にとっては魅力的に思えました。目指す方向は全然違うので、私はジョーカーの行動そのものには真っ向から反対しますし、アーサーのような人がもっと前向きに暮らせるような手助けをしていければ…と思っています(2022年追記:アーサーは反社会的なだけで前向きではあるだろ)。でも根っこの哲学の部分ではジョーカーにめちゃくちゃ共感しています。

▼最後に私の大好きな庵野秀明監督の作品から、このレビューにピッタリの言葉を引用して終わります。ここまで読んでくださってありがとうございました。

「私は好きにした、君らも好きにしろ」

 『シン・ゴジラ』より


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