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「発信すること」の怖さを教えた親友 「発信すること」の良さをくれた整形ツイート

文章を書くことが大好きで、日記をコンスタントに数年続けてきた私が一番恐れてきたもの。

それは、「知らない誰かに発信すること」

「アンチ」に刺された大切な友達


なぜ、私が発信を恐れるのか。結論から言うと、一番親しい友人が「アンチ」に滅多刺しにされ、彼女が中身から壊れてしまったのを一番近くで見てきたからだ。

彼女は、高校時代の同級生。
派手な制服の着こなしをし、学校ではかなり浮いている方だったことをよく覚えている。対する私は、勤勉なタイプで、学内でも目立たないよう常に保守的だった。
そんな間反対にいる私達だが、お互い唯一心を許すような関係だった。

そんな信頼関係にある彼女が、夜職に手を出したのは高校2年生の時。気づけば、同じ時期に入学した大学も早々に辞めていた。

大学を出てからは、都内で一人暮らしをしながら夜の世界を隅から隅まで渡り歩いていた。当時は、某夜の街で彼女を知らない人はほとんど居なかったくらいに。

そんな彼女は、夜の世界から見える素直な心の内を日々ツイートしていた。1、2年ほどでフォロワーは3万人を超えていた。某出版社からも声が掛かり、電子書籍の出版も果たした。

アンチは人気者である証拠、などとよく言うが、この頃から彼女に対する攻撃が多くなった。どこから入手してきたのかわからない過去の写真、美容整形のモニターになった時の写真を入手して、風貌を好き勝手に批判していった。
「見なきゃいいのにって思ってる…」と彼女は言うが、気になってしまうのであろう、掲示板で続く絶え間ない批判もあった。

彼女は数ヶ月悩んだ末、4年以上毎日を共に過ごしたTwitterのアカウントを手放した。
友人の何人が「もったいないよ」と言ったことか。しかし、そんな自分の分身とも言えるアカウントは彼女にとって、もはや脅威でしかなかったのだろう。アカウントを消すか残すかを考えている時には、泣いて電話をかけてくることだってあった。

Twitterを手放して1年以上経つ今も、彼女は表立って何かをすることに恐怖を感じ、毎日何かに怯えている。そんな彼女を一番そばで見てきた私が、「発信をすること」に対して抱く感情は明白だ。


書くのは好きでも意識する、誰かの脅威


初めに書いた通り、私は「書くこと」が大好きで、暇があればFacebookを更新して自分の考えを書き連ねている。もう2年以上続いている。

投稿を見る人は、学生時代アルバイトをしていたバーの大人たち、父親のつながりで親しいおじさま、インターン先のメンバー達と、味方であろう人たちで埋め尽くされている。

それでも、自分の書いていることの批判を受けることは常に怖く思っていた。どう思われているのだろう、と怯える時もあった。

私のFacebookを見ている人生の大先輩達が、「発信してみな!」と何度もアドバイスをくれていたにもかかわらずだ(ごめんなさい)


「感謝です」たった一つのツイートが
アドバイスの言葉をもらっても「そうですね!」と、否定も肯定もしない返事を繰り返していた。

そんな時、ほぼ見るために作ったTwitterのアカウントで整形のリポートを発信した私。数日後、ツイートを見に行くと何件かリプライが飛んできていた。

その中でも、一人、自分と全く同じ悩みを持っている人を見つけた。彼女は、私とのやりとりを通して「感謝です!」と言う思いを伝えてくれ、スターバックスのチケットを送ってくれた。

「ほんのお礼です、新作でも飲んでください🙇」

見ず知らずの私に、ありがとうの言葉だけでなく、お礼まで。
知らない誰かの役に立つことができた、そんなことができるのか。

大したことをしたわけでもないのに、言ってしまえば自分語りをしただけなのに、心が温かくなった。

「発信すること」の二面性


思い返せば、アンチに刺された彼女も、幾度となく言っていた。
「〇〇ちゃんのおかげで頑張れます!とか、感謝されることが嬉しいんだ」

彼女と一緒に街中を歩いているとき、彼女がある女の子から、「〇〇ちゃんですよね!?私も同業で、いつもツイート見てます!」と声をかけられていた。彼女は気前よくツーショットを撮ってあげていた。
この光景を見るに、彼女のツイートは人と人とをつなげていること、人に喜んでもらえることをしていたのは間違いない。

もちろん、何かを発信するということは、同時に違う意見を持つ人やよく思わない人にまで、自分を晒すことになる。
だからと言って、良い受け取り方をする人だって、それに感謝してくれる人だって、役に立ったと思ってくれる人だって、世の中には色々な人が存在する。

私は、書くことが好きだ。

そして、アンチに刺された彼女のことも好きで、刺した彼らを憎いと思う。
自分ができること、それは自分が好きな「書く」ということを通して、何か影響を与えられたらと思うこと。何より、もう一度、彼女に発信する道も選択してもらいたい。
欲張りだとは思うが、自分の発信をできなかったこの理由を正に変えることができたら…と思う。

今回、この文章を書く理由になった、親友である彼女の存在、そしてTwitterでリプライをくれた彼女の存在に感謝したい。

このnoteでは、「ちょうどよく生きたい」人に力を与えられるような、私の日常をポツポツと書いていきます。「生きにくいな」は一人だけではありません。そして、生きづらいの上も下もありません。物事の少しの捉え方だと思っています。といいつつ、私も居心地の悪さを感じてしまうことはあります。

22歳、ちょうど良い生き方を模索します。


▶️2年前、親友の記事を書きました。

▶️朝日新聞デジタルのメディア、かがみよかがみにコラムが掲載されました。


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