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【幸福について】「競争」から「探求」へ。
「人生の究極の目的は、自分の幸福度を最大化することである」
この説におそらく異論はないと思うのですが、いかがでしょうか?
なぜなら極端な話、
「プロ野球選手として活躍する」のも
「未来を担う子供たちの教育に心血を注ぐ」のも、人々に希望を与えたり、他者、ひいては世界に貢献したりしていることは確かですが、
それらの活動を通して、自らも幸福を得ていることもまた確かだからです。
他にも身近な例でいえば、
「自分の取り分を減らしてまで、切り分けたケーキの大きい方を相手にあげる」のは相手に喜んでもらいたいと思うからで、
その行為自体が既に自分にとって幸福を得られるものである、みたいな。
さて、今回のテーマは幸福論的な話です。
そして、「自分はどのように幸福を得ていくか」に関して、「人生の壁」にぶつかった話もしていきます。
「わかりやすい成功」に固執するのをやめた。
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「わかりやすい成功」とは、
例えば、
・年収億越えのお金持ちになる
・都内タワマン住み
・俳優並みの容姿
・モテまくり
……みたいな。
雑にまとめてしまえば、
「富・名声・力!」って感じのステータスですね。
ところで、なぜわざわざ”わかりやすい”と書いているかというと、あらゆる人に共通する欲望で、羨望の対象になりやすいステータスだからです。
莫大な金、あったら嬉しいですよね。
将来の不安はかなり軽減されるし、
飲みに行った後の懐の寒さにつらくなることもなくなるし、
大切な人のためにしてあげられることも増えるし……。
でも、金が欲しいとかモテたいなんて全人類思っている上、パイは限られているので、当然競争が発生します。
それも、厳しい競争が。
「わかりやすい成功」は、厳しい競争を勝ち抜いた先にしかない。
![](https://assets.st-note.com/img/1713442945222-0yEBlVCtQC.jpg?width=800)
前述の通り、有限のパイに大量の需要が集中するので、莫大なカネを得るにもモテを得るためにも、生き馬の目を抜くような熾烈な競争が繰り広げられます。
まさに弱肉強食、残酷な実力主義の世界です。
血の滲むような努力が必要なのはほとんど前提みたいなもので、
その上で、才能や適性、運などに恵まれた者が勝利を掻っ攫っていく世界です。
僕ももう20年と少し生きてきましたから、自分のポテンシャルや適性について、大体はわかってきたように思います。
その結果、
「自分は過酷な競争の世界に幸福を求めることはやめた方が良い」という結論に至りました。
確かに、完全に競争から降りることは出来ません。
生活のためにお金は必要なので仕事はしないといけないし、人間関係を構築したり結婚したりもしたいと思っているので。
ただ、ポテンシャルの問題に加えて、健康を害して幸福度が著しく下がった経験もしているので、
自分の場合は、競争に割くリソースの割合は下げられたらな、と思っています。
(ちなみに、僕が「声優になりたいなー」というぼんやりとした夢を早々に諦めたのも、一生過酷な競争を勝ち抜いていかないといけないのが目に見えたからですね。
おおよそ、声優だけで食っていけるのが志望者の1%、第一線で活躍できるのはその中の数% = 志望者全体の数千分の一というとんでもない世界と言われています。
おまけに、声優になってからもつねにオーディションの日々…。)
他者からの承認を介さないと幸福に変換できないタイプの成功
極論かもしれませんが、他者の目がなければ、「わかりやすい成功」からは幸福は得にくいと思います。
例えば、
自慢する相手や成功を共有する仲間が全くいないとして、がむしゃらにお金稼ぎに熱を上げたり、
高級車や高級腕時計、タワマンを買ったりする人は、果たしてどれほどいるでしょうか?
つまり、「わかりやすい成功」というのは、
客観的に見て、その価値やステータスがわかりやすい、評価がしやすいのであって、
それ自体は幸福度に直接寄与しないと言っても過言ではないと思います。
タワマンやハイブランド品などの「わかりやすい成功」を手にすることで得られる幸福感は、実は既に「他者の目」を介して、変換を施されたものだと思うのです。
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まるで、レンズを介して目に映る虚像のように。
あるいは、入力xに対して変換aを施して得られる出力:y = ax みたいな。
そして、幸福を得るために他者からの評価を介さないといけないということは、幸福度が他者からの評価に左右されることを意味します。
幸福度yを上げるために、頑張って実績xを増やしたけれども、
他者からの評価aが低い値であれば、
結果的に幸福度はあまり上がりません。
よって、以上の
・厳しい競争に消耗してしまう可能性が高い
・他者の評価という不確実性の高い変数が介在する
という2点から、自分は出来るだけ「わかりやすい成功」に固執しない方が幸せになれるんじゃないか、という結論に至りました。
「競争」から「探求」へ。
さて。
「わかりやすい成功」にこだわるのをやめ、厳しい競争に参加することも出来るだけ避けるという方向に舵を切った僕ですが、
代わりに何に幸せを見出すのか。
「内的世界の充実」を目指す。
僕が幸福を得るための主な源、言い換えれば「人生において力を入れたいこと」とは、「内的世界の充実」です。
なんやそれ、って感じなので説明すると、
まずざっくりと言ってしまえば、「現実を解釈する力」を育てようということです。
僕たちは、現実をそっくりそのまま受け入れているわけではありません。
見ているのは、十人十色に異なるそれぞれの「レンズ」を通して結ばれた、物事の「写像」であるはずです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713436213634-UfpcTj6CeL.jpg?width=800)
上の写真を見てください。
きっと多くの方が、「黒い石だな」ぐらいにしか思わないと思います。
少し地学とか日本史を勉強した人なら、「黒曜石だ」「ナイフ状の石器が作れる」などの印象を受けるでしょうか。
一方、鉱物とか地学、科学に興味のある僕は、
・石で叩き割ると、出血に気付かないくらい鋭く割れる。
・主成分はガラスと同じ二酸化ケイ素。
・流紋岩質のマグマが急速に冷却されることで生成する。
・金属加工技術のなかった南米のアステカでは、黒曜石が武器や祭具として使用されていた。
・数万年前、黒曜石の石器により肉を切って食べることが容易になり、その結果、人類の脳の巨大化を助けたという説がある。
……
くらいのことはスラスラと頭に浮かんできます(オタク特有の早口)(高速詠唱)(リアルでこの話する機会なさすぎる)。
このように、同じものを見ても、個々人の知識や考え方によって受け取る印象や解釈は全然違うと思います。
そして、僕はこのように、
興味のあるものを起点に、(ジャンルの異なる)別の物事と、
知識と知識が繋がっていく、整合性のある説明が与えられる感覚に大きな幸福を感じるのです。
たとえるなら、テトリスみたいな感覚ですね。
知識をインプットしていくのがブロックを積んでいくのに対応していて、
適切な知識を積んだり新たな発想に触れて知識の配列が入れ替わったりすると、ブロックが揃って弾けて点数が入る、みたいな。
よって、幸福度を上げるために、
僕はその「物事を解釈する力」を育み豊かにしていきたいと思っていて、それを僕は「内的世界の充実」を目指す、と言っているわけです。
なんだか自己完結的、自閉的な方向性やなあ、とは自分でも思いますが、
そもそも根っこが陰キャで、ジメジメした石の下にいる虫みたいな感じなので、まあしゃあないかなあと。
内的世界の充実。
そのために、読書を始め良質な情報のインプットはもちろん、情報はただ積んでいくだけでは溢れて詰んでしまうので、
積極的に人と話してみるとか、このnoteに文章として考えを書いてみるとか、頑張っていきたいですね。
長くなりましたが、以上です!
ありがとうございました!
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