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「言語交換」は甘くない

 身も蓋もない話。たとえば、「日本人」である私が〇〇語の運用能力を磨きたいとする。その場合、「日本や日本語に興味関心のある〇〇人」と付き合うのは、実はあまり得策ではないような気がしている(多少は経験に基づいた感想)。そういう〇〇人は総じて日本に甘く、日本人に甘く、したがって私にも甘いと思う。もちろんそれも〇〇人の多様な側面のひとつには違いないのだが、一方それによって日本に興味のない多数の〇〇人の存在を忘れることになると、いろいろな認識を歪める結果に陥るのではないか。
 「日本や日本語に興味関心のある〇〇人」ばかりと付き合うことになりやすい地域を2つ挙げることができる。それは「日本」と「〇〇語圏」である。この2つの地域においては、あまり主体的な努力をせずとも、日本や日本人に親しみを覚える〇〇人が向こうから寄って来てくれる。当然それを敢えて退ける理由は差し当たって思い浮かばず、互いの母語を教え合う、側から見ても微笑ましい友好的交流が始まることになる。
 だが悲しいかな、友好と馴れ合いとは紙一重。そういういわゆる「言語交換」は、先方がなまじ当方の言語を理解するがゆえに、ある程度ごまかしが効くことが多い。また、両者の学習意欲が完全に同等であるケースはおそらく稀で、意欲が強いほうの勢いに一方的に押され、事実上言語「交換」の体をなさないという場合も少なくないだろう。
 むしろ、「世界は日本にもおまえにもまったく興味のない人間でほぼ成り立っている」という現実を直視し打ちのめされる経験をするほうがいくつもの面でいいことだ、という思いが年々強まる。相手はおまえの「〇〇語もどき」など何も理解していないのだ。悔しかったらちゃんと〇〇語を身につけて理解させてみろ。皮肉な話だが、〇〇語圏への留学はそういう経験をする場として、上述の理由により必ずしもベストとは言えないのではないか。ある日本人が、オーストラリアへの英語留学中に知り合った中国人に、英語を介して教わった中国語がなかなか上手だったりする。そういうのを見ると、いろいろと深く考えずにはいられない。

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