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肯定は、"否定の否定"

書籍、雑誌、Web記事、Twitter、もちろんnoteも。
今やありとあらゆる媒体から言葉を摂取できる時代になり、情報過多なんて何十年前も昔からしつこく叫ばれている。

そんな情報の大海原で僕は時々、きらきら光る瓶の破片を拾う事がある。
たぶんそれは、自分にしか見えていなくて、自分だけのとっておきの宝物。

そんな中に、今回のタイトルに書いた表現があった。

肯定は、"否定の否定"

僕らは常に「正義か悪か」
そんな二面性でしか物や人を捉えられない事が多々ある。
しかし同様の捉え方をすると、以下のような言い換えすら出来てしまう。

「正義は、"悪の悪"」

わかりやすく例えるなら、
「バイキンマンの悪は、アンパンマン」である。
プラスマイナスの二つの要素は、マイナス×マイナスによってプラスに転じるからこそ、成功と失敗は同じくらい大切だなんて言われる。

野暮な事を書いてしまうけど、取捨は必ず同時に発生するし、両手で掬い上げられる数なんてたかが知れている。
働きながら人生という時間を代償にしながら、生活費という賃金を得ている人は多いかもしれない。

肯定の話に戻るが、だから誰かを認める事は誰かを排斥する事ともなる。
自分は今まで、他人を肯定する事が相手の為になると勘違いをしていたけど、この表現に出会った事で、自分を排斥すらしてしていた事実に気付いてしまった。"肯定 = 別の他人を排斥する"ことは特段悪い事ではない。

ただ一つ言えることは、
"否定をするということは責任が発生するということ。
  だから覚悟をもって選択をしなければいけない"

良し悪しの判断をつける事が難しいばかりで、何もしたくないなんて本音が湧き上がってくるなんて幾度もあった。

肯定は否定の否定であるという事実は、誰が何をしても変えることは出来ないからこそ、僕らは肯定をして否定をするんだ。
むしろ肯定も否定も、結局は"否定行為"と呼べてしまうんだけど、それじゃあまるで僕らは悪い事しかしていないみたいじゃないか。
しかし全くそんな事はなくて、"否定をするという事は、別の何かを肯定する事"にも繋がり、そしてその終着点としては先ほども述べたが、
"結局僕らは肯定をして否定をしているんだ"



肯定と否定、両者のどちらが正で悪かなんてそんな尺度の話ではなくて、言って仕舞えば、どちらも正解にできるんだという事を声を大にして伝えたい。

明日も僕は自分の正義を信じて、肯定をやったり否定をしてみたりするんだろう。


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