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『探究授業』をデザインしてみた件

こんにちは、グランドデザイン代表の西です。
2022年度入学の高校1年生から「探究」という名の科目に取り組むことをご存知でしょうか? 学習指導要領の改訂によって、これまで「総合的な学習の時間」として実施されてきた科目が「総合的な探究の時間」に変更されます。この「学習」「探究」に置き換わるだけで、授業は一変します。いわゆる学習には正解がありますが、探究には正解はありません。
この『正解あり→正解なしへの変更』に先立って幾つかの高校では模索が始まっていまして、その一環として僕のような人間にお声をかけてもらう機会を得ました。僕にも高校生の娘がいて、何かしらお役に立てるならと、昨年は埼玉県にある県立浦和高等学校、今年は静岡にある県立静岡高等学校で授業をさせてもらいました。以下は今年の静岡高校の内容のまとめになります。

『良質な問い』はググっても答えが出ない

そもそも探究の課題ってなんでしょうか?身近にいる娘(高校3年生)に聞いたところ、『そりゃSDGsあたりでいいんじゃない?』と即答。でも担任の先生は気づいています。本当はそれでいいはずがないと。ただ本人の関心が探究の軸とありますから、娘がSDGsに関心があると言い張ればそれで文句は言えません。これは単に「学習=覚える」を「探究=調べる」HOWを単純に置き換えているに過ぎません。しかし本当に重要なのはWhyです。
探究課題とは「探究し解決しなければならない問題」つまり、本質的には『問い』が重要です。それを「興味のあることを調べる授業」だ、と娘は自分に都合よく解釈し「調べる対象=テーマ探し」に走ったことの結果です。娘世代はググること自体は幼い頃から慣れ親しんでいますから、SDGsあたりのテーマを何回かググって終わらせようという算段です。今年は受験だし、先生もそんな生徒を40人抱えていますから大変です。
「総合的な探究」とは本質的に『問い立て』が最も重要になるはずじゃないか?というのが僕の仮説です。考えてみれば、高校生までは「誰が難しい問題の正しい答えを出せるか合戦」をしてきています。でも世の中に出ると気づくのです。「世の中に絶対的な答えはない」ことを。いや絶対的な答えのある範囲のことは存在しますが、それだけで世の中は動いていません。いやむしろより多くの正解のない問いの中で大人はもがいています。「課題解決能力」が問われる世の中ですから、課題を上手に解決できる優秀な人はたくさんいますが、「問題定義能力」に優れた人は少ない。問題が間違っていれば答えも間違うので、実は「課題解決能力」よりも「問題定義能力」の方が重要とも言えます。これこそが『探求』の核心なんじゃないか?
そこで僕が考えたのが以下のような始まりです。

なぜ君らが探究をする必要があるのか?

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まず、これを伝えたい。『世の中に絶対的な答えはない』
太陽は本当は赤くはないし、鶏がコケコッコーと鳴いているのは日本だけ。1+1=2であるのは、算数の条件下で成立しているのであって、前提条件が変わると同じ結果にならないこともある。このようにお互いが違う前提を持つ人同士で運営されている社会のなかで、絶対的な答えを見つけることは非常に困難なことであることをまず知っておいたほうがいい。
じゃ、絶対的な回答のない世の中で、『正しい答えを出すのが得意な人』はどうしたらいい?という問いが生まれます。「課題解決能力」って言葉あるよね?この事実の前では色合いが変わって見えるはずです。実は解答って、世の中にあふれている。なぜなら課題解決能力の高い人がいっぱいいるから。なのにね、いろいろ解決しないわけです。なぜか?
たぶん問いが間違っているからなんです。世の中のいろいろが解決しないのは、回答が間違っているのではなくて、問いが間違っていることが多いと僕は考えています。

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だから『問い』を立てる事に意義がある。しかも問いをどんどん更新しなければいけない。古い問いには既に答えがある。だからここで僕は『新しい問い』と書いています。さらに『正しい問い』でもない。問いの正誤は最初から分からないものです。だから『正しい問い』を探しに行くのは無理筋。このことは後でも話しますが、間違うことをいけない事として今まで学んできた君たちですから、つい『正しさ』を探しに行きたくなります。でも問いを立てた時点で正しいとわかる底の浅い問いは既に回答があります。それを『正しさトラップ』と認識しましょう。いい加減立派な大人になっても『正しさトラップ』に捕まったままの気の毒な人は多い。僕はこれを一種の思考の病じゃないかと思うわけです。うなず方もいると思います。ちょっと話が抽象的になり過ぎたので、思い切って具体的な話にしてみましょう。

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No.1とOnly1って、この正しい答えと新しい問いの構造的に似てると思いませんか?正しい答えとは一定の条件下で成立するもので、それはNo.1にも言えます。一方、新しい問いとは今までに存在しなかったものでそれ自体が正しいか間違っているかは分かりません。でも独特な魅力がある。
お笑い界においてNo.1は明石家さんま師匠です。一方同じお笑い界でもビートたけし師匠はOnly1です。何が違うのか?さんま師匠は、30年にも渡ってお笑い界でもトップを走り続けています。こんな人いません。一方たけし師匠はある時期お笑い界のトップに君臨していましたが、その後映画監督として世界に認められ、その他にも書籍や絵画など様々な活動を行っています。そんなたけし師匠は、自分に肩書きをつけるならお笑い芸人であると言っています。しかし芸人として『映画と執筆/創作活動』は正しい答えでしょうか?もしお笑いをエンターテイメントの一つとして再定義し直すなら、これも腹落ちします。それこそが僕の言う『新しい問い』なのです。明石家さんま師匠は日本のお笑い界のNo.1。ビートたけし師匠は世界のエンターティナー=日本におけるお笑い界のOnly1なんじゃないかと思っています。ちなみにOnly1はただの個性ではありません。No.1にも個性はありますからね。

Only1には新しい問いが潜んでいる

新しいクイズ番組を考えてみましょう。君はまず過去に視聴率の良かったクイズ番組を調べるでしょう。そこで分かるクイズ番組とは、

1:知識としては非常にニッチな超難問にいくつ回答できたかを競うもの。
2:回答者は、高学歴高校生・高学歴その他いろんな括りの芸能人など。
3:視聴者は超難問に答えられると家族にいい顔ができる。

この構造を掴むといくつもの番組を量産できます。『東大王』『ネプリーグ』『Qさま』。。しかしクイズ番組とはそれだけか?

質問する人がいて、回答する人がいて、その様子が面白ければクイズ番組(コンテンツ)になるのではないか?そのように考えると、我が家にも大人が答えられない質問をする小さな人間がいることに気づくでしょう。そう、子供。その問いからスタートして出来上がった番組がNHKの『チコちゃんに叱られる』ではないか、と思うのです。子供の質問に答えられない大人が叱られるクイズ番組の構造はクイズ番組に一石を投じたと思っています。

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では次に新しい扇風機を考えてみましょう。何のために新しい扇風機を作るのかと言えば、売り上げを上げるためですから、まずは売れている扇風機を調べたくなります。どんな機能がついていて、いくらで、どんな売り方をしているのか?調べるまでもなく企業はそんな情報を既に持っていますから、その知識を仕入れた上で考え始めるのが習慣となっています。
しかし一方で、扇風機とは風を送り出せばその機能を果たすわけです。そうであれば風を送り出す新しい装置を作ればそれは扇風機になりますし、逆回転すれば掃除機になります。そうなれば扇風機に羽根は必要要素ではなくなり、羽根による事故がなくなり、見た目にも美しい。もうお分かりだと思います。Dysonはそのように生まれていると想像できます。(初期の掃除機はすごくうるさかったですが。笑)

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では次に、新しい携帯電話を考えてみましょうと言えば、もうみんな答えは出ていますね。笑
ここで問題なのは、新しい携帯電話を考えるときに過去資料から未来の「正しい答え」を探しにいく行為自体が発想の自由を奪っていることです。これが前に述べた『正しさトラップ』。もちろん、初めての携帯電話自体は「新しい問い」でした。電話を持ち歩ける通信のパワーが揃った時に(1G)、『さて携帯する電話とはどんなか?』と問い立てした。しかし一旦携帯電話が発明されてしまうと、過去資料からの「正しい答え」探しに終始した結果が、Appleにイノベーションのチャンスを譲ったことになるのだと思います。それも実は、iPnoneの前のiPodで既に勝敗は決まっていたようなもので、iPodもiPhoneも本当は小さなコンピュータですから、パソコンをiPodを音楽プレーヤー、iPhoneを電話と名付けたことが決定打になったのだと思います。そしてもう一つ大事だと思うのは、新しい問いを立てた時点でその問いが正解かどうかはわかりません。『子供が大人に質問するクイズ番組は面白いのではないか?』『送風機能をゼロから見直した扇風機は凄いのではないか?』『パソコンを携帯電話として使うことは人類を進歩させるのではないか?』その問いを正しい問いだったと証明するのは課題の解き方にあるのだと思います。

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君たち独自の問いを立てていこう

さて、今度は君たち自ら新しい問いを立てる番です。これで探究授業が簡単にググって済ませられるものではなくなりました。君らはまだ16才だと思えば、10年前までチコちゃんだったということになります。だからチコちゃんに戻ってみようということです。例えばこんな風に問いを立ててみたください。『なんでAはBじゃないといけないの?』Aを批判するのではありません。AがAである為に、Aの必要条件を探し、それがなぜBなのか?を疑ってください。原理原則に戻るということです。

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例えば僕は君たちの年頃、恥ずかしい話ですが、ちょっと自分って天才?と思っていました。なんでかは記憶にありません。そういう時期だったということです。でも当然気づき始めていました。「あれ?おかしいな」と。俺って平凡なのかもしれない。。そんな高校生でした。その頃の自分ならこんな問いを立てたかもしれません。

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天才って、凄いじゃないですか?でもそれって本当か?という問いです。自分が天才じゃないことに気づき初め、天才自体を疑う問いですが過去の自分のためにもチャレンジしてみましょう。

例えば1000人の平凡な人がいるとします。その中で天才は如何にして天才になるのか?まず天才は何かに際立っているはずです。でもそれがただの変な奴の確率は高い。でもその中から天才かどうかはどのように見分けるのでしょうか?紙一重です。その変な奴がやりたくてやっていることを見出し、それって凄いと言ってくれる人が必要になります。例えばこの人をファーストフォロワーと呼ぶとします。このファーストフォロワーが変なことに乗っかって、「おいみんな、これ楽しいよ一緒にやろう」と言って支持者を集めなければいけません。そうして2人目、3人目が集まって、5人目、10人目と広がりを見せること。その集いが100人、1000人と増えていった時に、この最初の変な奴は天才(的)となります。(TEDにもプレゼンがありましたね)
だとしたら、天才を天才にしているのは、このファーストフォロワーなのではないか?という仮説が生まれます。天才は持って生まれた個性や背景が影響します。しかしファーストフォロワーには見出す力、サポートする力、それなりの人望があればなれそうです。それはある程度後天的に身に付けられるスキルです。そうだとすれば、全ての人が天才にはなれないが、ファーストフォロワーにはなれると言えるのではないか。
従って上記の問いからは、天才が凄いということは依然として変わりませんが、探究としては、過去の歴代の天才の周辺にいるファーストフォロワーを見出し、何を行ったか調べ、その価値を証明できれば、高校生の探究授業としては立派な成果と言えるのではないでしょうか?ついでにそのファーストフォロワーの条件なんかも付け加えれば、流石と言えます。
大学生になればもう『絶対的な正解のない世界』の入り口に立つことになります。高校時代に自らの『新しい問いを探究』し、『結論を導き出し』、大学生になるのは、今までより良い高校時代であったと言えるのではないかと思っています。

以上が僕が考えた探究の授業の最初の一コマです。


ちなみにこの授業のきっかけを作ってくれたのは、オプンラボの小林さん川久保さん。そしてパートナーとして一緒に授業を作ってくれたのはイージフのCTO石井さんでした。石井さんも探究授業がいかに大事かをメタ認知を駆使して生徒の頭を揺さぶっていて面白かっったです。
あといろいろ画像を勝手に使っています。特にチコちゃん許してください。叱らないでください。

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