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チャーリイ・ゴードンになった日

『アルジャーノンに花束を』の主人公、チャーリイ・ゴードンは、脳手術を受けて著しくIQが上昇する。
その過程で、彼は様々な”感情”を抱くようになる。
特に、はじめて出会う”恋”や”性的欲求”といったものに、彼は非常に戸惑う。

そんなふうに、今まで自分の中になかった感情と初めてであった時、人は戸惑いを覚えるものなのだろう。
私はこの年齢になって(といっても明かしてないけれども)初めてその感情と出会い、そして、かなり驚いている。

「消えたい」

という感情だ。

それは、どこからか落ちてきた花びらが、川面にひらりと身を落とし、流れに沿ってあっという間に下流へ去って行くように、実にふわりとしたものだった。

それまで、「消えたい」と言っている人たちがたくさんいることを知ってはいても、実際どのような感覚なのかよくわからなかった。
試しに検索してみると、それはたいてい死と結びついていた。

安心してください。

私のそれは死と結びついていない。
「死にたい」というのは、前提として「生」の存在がある。生と死は、裏表もしくはグラデーションであり、どちらかが存在して初めてもう一方が存在するものである。

「消えたい」は、少なくとも私の場合は「生」の存在とは無関係だ。
私が存在していたという歴史も痕跡もない、私という人間がこの世にいない、つまり「私の生」のない世界だ。
だから「死にたい」とは思っていない。
そして、「私の生」のない世界は存在していないのだから、「消えたい」願望が叶うことはない。

私は、この「消えたい」願望がふらりと胸に訪れた時にとても驚いた。自分がまさかそんな感情を抱くとは思っていなかったので、チャーリイが恋を知ったときよりも戸惑っている。
一般的に言う「消えたい」とは少し違うということを知って、更に驚いている。

また、「消えたい」願望はほんの一瞬の出来事で、長続きしない。次に続く感情は「空っぽ」に近いかもしれない。何が解決してくれるだろうか、どうしたらそんな考えが浮かばないようになるのか、何に救いを求めようかとか、そんなことは考えていない。
生活はそのまま継続され、ご飯を食べ、よく寝て、娯楽のための買い物をしている。
すごく楽しいかと尋ねられたら、そうでもないけれども、かと言って、食欲がない程落ち込んでいたり、寝込んでいたり、仕事や学びに影響を及ぼしているわけでもない。

更には、この突然訪れた珍客に戸惑っている私を観察している私がいるのがとても面白い。

私には「消えたい」と思った理由がわかっている。
私は死にたいとは思っていない。
私は「消えたい」という感情の訪れに戸惑っている。

そんなふうに、ちゃんと観察し、そのままそっくりnoteに書き写している。
私は作家ではないので、自分の感情を切り売りはしていないが、売っていないだけで、かなり切り刻んでいるように思う。

チャーリイ・ゴードンの知能は、ある一定のレベルまで達した後、下降していく。
彼が味わった多くの感情も失われていく。
私の「消えたい」願望も、いつかはなかったことになるのだろうか。
そうだと良いけど、あまりにも心がスカっと晴れていると、それはそれで物を表現するには足りない気がする。

心には、ちょっと憂いがあった方が良いのかもね。

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