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名詞の性をめぐる冒険

英語以外のヨーロッパ言語を学んだことのある方にはお馴染みの名詞の性。
スペイン語やフランス語は男性名詞と女性名詞、ドイツ語は男女の他に中性名詞というものもある。
日本語では、単語にこうした区別がないために、初めてヨーロッパ言語を学ぶ方にとっては、「イミフ」な文法だ。
名詞の性は、各言語に分かれる前の印欧祖語の段階では哲学的な理由があったようだが、現代では意味のない、あくまで文法上の性である。

先程、英語以外と書いたが、船はShe、太陽はHe、月はShe のように、通常 it で受けるべき単語をHeやSheで代用する場合がある。古英語の名残りとしてそれらがあるのか、あるいは擬人化であるのか、ざっくりした検索ではわからなかったが、船などは擬人化である可能性が高そうだ。

文法上の性を採用しているスペイン語の場合、海は el mar(エル・マール) と男性名詞なのだが、

老人の頭のなかで、海は一貫して”ラ・マール”だった。スペイン語で海を女性扱いしてそう呼ぶのが、海を愛する者の慣わしだった。そうして海を愛する者も、時に海を悪しげざまに言うことがあるが、女性に見立てることには変わりない。

・・・中略・・・

サメの肝臓で儲けて買ったエンジン付きの舟で漁に出たりする連中のなかには、海を”エル・マール”と男性形で呼ぶ者もいる。そういう連中は、海を競争相手か、単なる仕事場か、甚だしい場合は、敵のように見みなす。だが、老人はいつも海を女性ととらえていた。

Ernest Hemingway『老人と海』高見浩 訳

こんなふうに、文法に沿わない使い方もすることもあるようで興味深い。

これらの文法上の性は、覚えるしかない。見分け方もあるにはあるが、基本的には記憶と慣れであり、言葉を学ぶ上でさほど難しい文法項目ではないように思う。

ところが、現代において、この名詞の性で困ったことが起きてしまうことにお気づきの方が、どれくらいおられるだろうか。

フランス語の3人称代名詞には、女性 Elle と男性 Il がある。

Elle ame les chats. 彼女は猫が好きです。
Il aime les chiens. 彼は犬が好きです。

昨今よく話題になる性を巡る問題の中で、彼女でも彼でもないNon-Binaryの第三者を表す人称代名詞がないのだ。


日本語であれば、「あの人」とか「その人」と言えばよいだろうか。
もちろん、cette personne という言葉はあるが、それ以外にElleやIlに代わる語をフランス語はどう解決しようとしているのか。
その話題を、レッスン終了間際の残り少ない時間で、在仏日本人講師に尋ねてみたところ、後日調べてくださった。

要約すると、« iel », « ielle », « al », « ol » というような言葉があるらしい。
フランスではあまり認知されていないようなので、新しい言葉かもしれない。

その点、複数形の they を単数形に持ち込んでしまった英語の寛容性たるや…
ただし、動詞の活用は単数を使うことになるため、
They likes dogs.
と言わなければならず、むずがゆい感じがする一方で、もしテストで
They likes dogs.
と回答してしまっても「Non-Binaryの人が主語です!」と言い張ることができる。

ちなみに、フランス語には男女を問わない複数形の they にあたる語もない。あくまで、”彼女たち・彼たち”である。

100年、200年後の未来に、世界の言葉はどう変化しているだろうか。
Back to the Future のデロリアンがあったら、行ってみたい時代のひとつである。

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