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中幕 ~探求第2章の手引き~

これまでのノートを通じて、私は以下のことを示してきました。

私達の言語を考える際、
・言語を成り立たせる「支柱」の役目を果たす言葉や文章
・これ以外の「普通の」言葉や文章
この2種類を、しっかり区別しよう。

これは主張というより、一種の提案、「そうすればいろいろ役に立つし、うまく説明できることも増えるよ」というモデルの提示です。

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具体的に何が言語の「支柱」なのかということで、以下のような実例を検討してきました。

・数、算術、数学
・論理
・確率

・色(錯視絵編)
・幾何、図形(錯視絵編)

・心、意識、内語(心の中のことば編)

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私達の言語では、なぜかこれらの要素が「支柱」として作用していて、言語の中で重要な役割を果たすと共に、時としておかしな振る舞いを見せる。

その理由の本質は、言語を可能にする条件なのに、それ自体が言語の一部(言葉や文章)としても使われている、という二重構造。

そして上に列挙された概念の多くが、伝統的な哲学で中心テーマになっていることに気づくでしょう。

ただ、実はこれ、話が逆。

物事を逆転のロジックでとらえる重要性は、文脈について考える過程で明らかにしました。(文脈の決定不可能性シリーズ)

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言語に内在する「支柱」という特異点を嗅ぎつける驚異的な嗅覚の持ち主。それが哲学者。

哲学者たちはこのどれかについて深く考え始めるのですが、「支柱」は我々の知的活動を可能にする条件だから、思索の表現は非常にデリケートでナイーブな作業になるでしょう。

やがて議論は錯綜して(かっこつきの)「哲学」化する。徹底した思索の末に「我」という真理(あるいは「我は無い」という境地)にたどり着くのでなく、「支柱」の一つについて考え始めてしまった運の悪い人が必然的にたどりつく言語的結末。これが哲学の起源。

よって哲学とは一言でいえば言葉の混乱。
(これが、繰り返し「注意深く近づかないと哲学に成り果てる」と警告してきた理由)

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思索の対象としてどれを選択するかは人の好みではありますが、面白いことに時代や地域によって特色があります。
ギリシアの哲学者たちは幾何学を究極の真理と見なしました。
「心、意識」をピックアップした人たちはヨーロッパの大陸系哲学を造りました。
英米哲学は数、算術、数学をピックアップして科学哲学や分析哲学にたどり着きました。

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***重要なのはここからです。***

では、言語の中で、何が支柱で何が支柱でないかを、どうやって判定するのでしょうか?
私が勝手に決めても良いのでしょうか? もちろん違います。

もしこの判定方法を私が提示できなければ、切り出した哲学のテーマをもってきて「ほら見てごらん」と後付けでなんとでも言えちゃいますよね。

そこでお教えしましょう、「支柱」を発見する方法:

・「できない問題」をたくさんピックアップして、その「できなさ」の質を吟味する。(「できません編」を通じていくつか実践してきました。)

この方法論を注意深く適用すると、言語の中で特異な振る舞いをする要素を見つけ出すことができます(これまでの探求シリーズで沢山見てきたように)。

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その実践を支える一本の戦略ラインは、

・外堀を明示して本丸を想像してもらう(地図を描いて建物を想像してもらう)

なぜなら、やっていることの性質上、言いたいことをズバっと言ってしまうとナンセンスになります。するとナンセンスを論証しなくてはならない無理筋が発生します。これはなんとしても回避しなくてはなりません。

そこで、私は数々のおかしな議論を行い、言ってみれば私達の言語にウィルスを持ち込んで意図的に不具合を発生させることで、「上手くいっていない(かみあっていない)」という事態にはっきり気づいてもらえるよう、試みてきました。

日常の内でなめらかに作用する「普通の言葉」にはこの性質がありません。

言語の不具合を通じて間接的に示された

「確かに・・・何かが・・・おかしい」

この違和感こそがスタート地点。

以上で、簡単ですが、私が提案したモデルと方法論の説明をしました。

***いまここ***

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さて、第2章が言語の性質に関する「静的」な探索だとすると、これとは全くパラレルな「探求3章」とも言うべき領域がありえることがわかります。
それは単純な事実によって明らかです:

・言葉の誤用が、いつしか誤用でなくなることがある

例えばどんなに難解な哲学的概念も、研究者のコミュニティを通じて多くが語られ、本が出版され、社会に受容されていけば、やがて「勉強」の対象になるでしょう。

日本語のように見えるけれど実は違う「愛とは何か」「機械に心はあるか」という疑問文が、れっきとした日本語になっていく(受容されていく)プロセスが私達の言語や社会に働いているということを、探求シリーズの中でいくつか検討しました。

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言語の動的な性質に関する考察。

すると第3章は、創作、造語、駄洒落、笑い、慣用句、詩的表現(比喩)、問うことと答えること、といった、人間の言語活動の幅広い探索が含まれることになるでしょう。

中でも「問いを問うこと」、とりわけ、「XXXとは何か」というWhatタイプの問いに答えることが(答えようとする努力それ自体が)、実は誤用を正用に転換させる積極的なドライバーになっているという観点が、3章の重要なポイントになるはずです。

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最後に、いま私が抱えている課題は、以下のように整理できます。

・「支柱」は1個2個では済まない。それどころかむしろ無数にありそう。できるだけもっとたくさん発見したい!

・「支柱」は時代と共に変化するだろうか? 言語によって変化する(言語相対的)だろうか?(私が文章で「私達の」言語としつこく書いている理由はこれ) 変化するとしたらどのように?(How)

・そもそも「どのようにして(How)」支柱は言語を可能にしているのだろうか?

まだまだ先は長そう。

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では、またそのうち、本編でお会いしましょう。

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