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探求 第2章(算術の基礎 編(7))


あなたは足し算をマスターしているだろうか。

おそらくyesと答えるだろう。

仮に100人が「まだマスターしていない」と主張しても、あなたはその100人の頭がどうかしていると思うだろう。

つまり加算をマスターしているという確信は、経験的な多数決ではない。

いってみれば、人生の全場面の一分一秒、一部始終が、足し算を習得しているというあなたの強固な信念を下支えしていて、それは人の反論程度では揺るがされることがない。

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いま目の前にごく単純な足し算の問題を出されて、それを解いた時、その答えが絶対に正しいという確信はどこからやってくるのだろうか。

絶対に正しいというよりも、間違っているかもしれないという疑念自体を抱くことがないという事実は、経験や訓練でもたらされた多くの技術とは趣が異なる。

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縄跳びで二重跳びをできない人が、練習してできるようになった時、それでも100回に一度は失敗するかもしれないと不安がるかもしれない。

足し算を習得した者が、100回のうち1回くらいは間違えるかもしれないと言うことはない(それはまだマスターしてないと言われる)

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数というものが理念的で超越的な対象であるかどうかはたいして重要なポイントではない。

それが理念的であろうとなかろうと、数は我々の生活の中でしっかりと噛み合い、役に立っている。

ポイントは、それがどのように(いかにして、How)、我々の生活に組み込まれているかだ。

もっといえば、数、算術、数学が我々の生活へ組み込まれる仕方は、他の日常的で経験的な諸技術と根本的に違っているわけだが、その違いをあぶり出して明晰に言葉で表現することが、(原理的に)できないかもしれない、という疑いだ。

重要なのは常にHowであって、WhatでもWhyでもない。

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