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市川沙央 ハンチバック

  先日、通販で注文していた市川沙央さんのハンチバックが届いたので、就寝前にさっそく読み始めた。実は、受賞当時にネット記事や会見動画を拝見しており、その中で市川さんが、この本は復讐心で書かれたものだと仰っていた。それが鮮烈に記憶に残り、脳みそのシワに刺さったように、その後もチクチクと痛み続けた。何をしていてもチクリと指すそれが気になってしまい、とうとう私は観念して本を注文したのだった。

 大抵の本は、予算が許す限りすぐに買うことにしている。しかし今回は何となく後回しにしており、やっと手にすることが出来たので、もうすぐに読みたくて仕方なかった。が、その前に何となく無視してはいけないように感じて、装丁をじっくり眺めてみる。デザインはシンプルだ。グレーの背景の真ん中にオレンジの抽象画がポツンと置かれ、左上の角から時計回りにオレンジ色で ハ ン チ バ ッ ク とタイトルが等間隔で伝う。ハの字から降下していくと、市川沙央と著者が印字されており、その小さな漆黒の明朝体は、サイズにそぐわない異様な存在感を放っている。不気味だ。眺めている間、早く読みたくてうずうずしていたが、いざ開こうとすると、どこからか不穏な音が迫ってきた。一瞬、表紙をめくるのを躊躇ったが、意を決してグレーの壁を突破する。ハンチバックいう言葉の意味すら分からないままに、表紙の奥から聞こえてくる、後戻り出来ない不穏な音に鼓動が早くなった。明日が休日で良かった。

 開いて早々に、テンポよく卑猥なセリフが羅列されたWordPressの打ち込み画面が目に飛び込んできた。とりあえずペラペラ。…あ、これは、と思わず背筋が伸びる。衝撃の場面転換を味わう暇もなく、そのまま主人公の語りに入っていき、私の日常とはあまりにかけ離れた、しかし、やっぱり日常である様子が映し出されていく。恐らく、主人公は妙齢の女性で、読み進めていくと、徐々に人物像や周囲との関係性などが見えてきた。
 立体的にこの世界が見えてきた頃。表紙の絵の正体が判明した。そうか、せむしの絵だったのか。おもむろに本を閉じ、じっと見つめ返すと、正体が知れたことでより一層、不穏さが濃くなっていくそれに寒気がして、私は逃げるように部屋の角に目線を逸らした。
 展開が早くて濃密だ。ひとまず、専門用語を一つ一つ整理しながら、情景を想像していく。 何と不便な身体だろう。一日に何度、頭をぶつけるのだろう。もしかして、頭突きが強かったりするのだろうか。凡庸な私には、しょうもない疑問ばかりが浮かんでは消える。
 しばらくすると小腹が空いてきたので、キッチンからバナナを持って部屋に戻り、座布団の上でバナナの皮を剥いた手で、流れるようにスピンを引っぱりまた本を開いた。開くとちょうど、主人公がグループホームのヘルパーさんとセックスをしようとする場面だった。高まる緊張感と、バナナの匂いが本と往復する右手から伝って染み付いてしまったらどうしよう、という心配が入り交じった、よく分からない感情にグゥと腹が鳴る。もはやセックスと呼んで良いのか分からない熱戦を繰り広げる二人の間で、私は果敢にもモグモグし続けた。実は、ここはお気に入りの場面の一つだが、終始、もう勘弁してくれという感じで読んでいた。見下されていたと気付いた時のあの動悸や、コンマ数秒周囲がスローモーションになるところ。さらには、嘲笑や軽蔑、急所を避けつつ刺し合うリズムや温度の変化等が容易に想像でき、とにかく全ての具合が絶妙なのだ。おかげで、真夜中の部屋で一人、口にはバナナ、両手には本をで身悶える変態が爆誕してしまったではないか。痛い。苦しい。未知の快楽に溺れそうになっていると、途端に、足裏が接地しているフローリングが硬さを増していくような感覚が訪れた。錯覚に錯覚が上塗りされていき、徐々に、私を囲うワンルーム、テーブルや視線の先にある窓。生活を支えているそれら全ての物が疑わしく感じられてきて、得体の知れない不安が、壁や物をバウンドしながら迫り来る。そうして狼狽えていると突如、視線がある箇所で止まった。なんと、釈華がフェラをし始めたではないか。佳境を迎えているところ(ついでに絶頂も)なのに。バナナを持ってきたことを後悔し、そこで一旦、本を閉じてから、何となくチラリと時計に目をやった。時刻はちょうど午前三時で、うわあ丑三つ時だ、怖。と釈迦ではなく釈華に怯えながら、口内でドロドロになった最後の一口を飲み込んだ。

 なるほど、そんなことが。ふむふむ。中絶もそのうちプチプラ化されるだろう。そうだよなあ。…え?
 あまりの衝撃に一瞬、プチプラって何だっけと混乱する。一応説明しておくと、プチプラとはプチプライス(Petit Price)の略で、若者向けの安いコスメ等に使われたりする造語だ。要するに、薬局のチラシの大特価!を𝐈𝐧𝐬𝐭𝐚𝐠𝐫𝐚𝐦等のオシャレなSNSでも使えるように、ポップに加工した便利な言葉なのだ。この破壊力抜群な一場面は、健常者たちの作り上げてきた資本主義、消費社会に対する揶揄にしてはあまりに刺激的なように思えるが、しかし、それがいよいよ洒落では済まないところまで来ているのだから、ぐうの音も出ない。
 ここからは、釈華の妊娠して中絶したいという一見、猟奇的な願望の伏線が怒涛に回収されていく。研ぎ続けてきた刃で容赦なく切り付ける様は本当に爽快で、パンクロックのライブに迷い込んでしまったのかと錯覚するほどの快楽極まる衝動に、それだけでこの作品を読んで良かったとさえ思った。

 出てくる単語で面白いものがいくつかあるが、何が一番印象的だったかといえば、満場一致で"涅槃"だろう。ここで使われている涅槃は、涅槃と呼ぶにはあまりに俗っぽい。しかしだからこそ、釈華の欲望は独特の意味合いを孕み、我々健常者との違いを浮き彫りにしている。そして、この言葉を印象付けるためにより効果的なものとして役に立っている要素。生と性、及び死、親子含む人間関係や社会の繋がりといった普遍性は、健常者との隔たりを薄く感じさせ、欲望に付随する哲学性や著者の欲望を正確に伝えるための橋渡しになっているのだ。
 少し話は逸れるが、読んでいる間、身体中が痛くて堪らなかった。この本に綴られる文章からは、健常者の傲慢さと、人の有限性というものを否応なく実感させられるからだ。それに、釈華の視点からいくと、健常者の特権性にはほぼ際限がなく、その痛みは、私が特権性を行使して生きてきたことがそのまま跳ね返ったものだ。考えれば考えるほど、一体この命はどれほどの無知で守られてきたものなのだろうと羞恥心に苛まれてしまい、それは出口の無い思考の迷路でどんどん壁が迫ってくるような、窮屈な痛みだった。

 この作品の特に凄いところは、障害者と性という、タブーとされてきたところに自らが切り込むことで、健常者に都合の良い解釈を与える隙を与えないところだ。例えば、障害者に性のイメージは結び付かないが、それは誰にとって都合が良く、そしてどんな恩恵を受けてきたのか。そういったことを、考えなくても生きていけるとどこかで高を括っていたよね、と。そんなメッセージを端々から感じるのだ。効率化を推し進めるために、居ないものにされ続けた存在。そして弱者間でもまた、隔たりが存在するという絶望の中で生まれた孤高の哲学は、人々のやわいところを容赦なく抉ってくる。
 以前、某解剖医が個性とは身体のことだと仰っていたのを耳にしたことがある。考えるに、例えば、異端児に対して型破りという言葉を使ったりするが、本当の型破りもいうものは、まずは徹底的に技術を磨いて型を身に付ける必要があり、そうすれば個性なんてものは自ずと出てくる、ということだろう。もっとも、俗世間で言われる個性の物差しが釈華には使えない。だから、障害者が健常者たちの世界では相対的に個性になる、と結論付けてしまうのは些か早計だが、しかし、彼女の強靭な精神力と知性が、個性と呼びたくなるほどのものを作り上げてしまっていると思うのは私だけだろうか。否、そう考える大人が他にも居たからこそ、今回の受賞に至ったはずだ。

 次に、物語を支える柱の一つである福祉の問題については、恥ずかしながら初めて知ることばかりだった。これは色々と考えさせられる。まず、社会問題の解決というのは複雑で、周囲の熱が裏目に出てしまうことが往々にある。何かが大々的に取り上げられて、全体の認知度が上がる一方で、むしろその進歩がより、当事者を孤独にし、苦しめる要因を引き起こす。これは、そもそも闇をひた隠してまで明るい世界を作り続けなければならない人間心理、ひいては社会構造に問題があり、だから根本的な問題解決は難しいだろう。今回取り沙汰されている福祉に関してではないが、広い目で見ると、私自身がそのようなジレンマを当事者として抱えたこともあるし、また何度も目撃してきた。それは、いくら目覚しい発展を遂げた現代社会だって、人が運営していることには変わりなく、平たく言うと限界があるのだ。だから時々こうやって、爆散するまで消えない捻れみたいなものが生まれる。言わば、社会の欺瞞が生んだ捻れで、歪な形で生まれた排泄口に一定数、排泄物が集まったことによる爆発のようなものだと直感した。それに、現実問題、身も蓋もないが、人材不足や金銭面、政治的要因など、大人の事情が複合的に絡んでいたりして、解決のライン引きや兼ね合いが難しいという側面もあるだろう。とはいえ、分野に精通していない私があまり偉そうなことを言うと良くないので、ここら辺で引き上げたい。

 それにしても、同じ言葉を使っているはずなのに、この本に綴られた一文字一文字が、なぜこれほどまでに強いメッセージとして伝わるのかが本当に不思議だ。やはり、釈華の身体から生まれた言葉だからなのだろうか。制限が生まれることで、言葉は強いアイデンティティを帯び、劇薬と化した。これは、言語の元々の姿なのか。だから私は読んでいる間、釈華の言葉に共鳴し、身体がどんどんと狭まっていく様な錯覚に陥ったのか。あまりに苦しくて、何度も本を閉じては頭を掻きむしったり、首を引っ掻いてしまったが、しかし、私は狭い空間の中で動き続けるその鼓動に、生の尊厳そのものを見た。畏れる先で快楽に塗れ、あの原風景を思い出させるような苦痛の中で響く鼓動を、我を忘れて貪り続けた。
 忘れてはならないのが、涅槃の釈華の欲望はどれも、自分の存在をこの世界に根差すためのものだということだ。当然、美醜や善悪で測りきれるものではなく、それは本来尊重されるべき生であるにも関わらず、彼女はこの暴力的な世界から、自分の手で守り続けている。だって、闇が存在できない世界では、囲ってくる光を切り付けるしかないではないか。あぁ、そうだ。かつて感じていたあの歪な欲望と痛みの源は、切実な防衛本能だったのだ。
 倫理の堂々巡りを繰り返している内に、あっという間に最終章に辿り着いてしまった。結果として、釈華は再入院することになる。田中さんとの後味の悪いやり取りを思い出しつつも、無機質な病室に安心する。やっと落ち着くことができて、てっきりそのまま、以前の釈華の施設での生活が取り戻されて静かに終わっていくのかと思ったいた。その直後。背後からブスリと襲う、念押しの一刺し。これは一世一代の復讐だ。油断してはいけない。

 ところで、この物語の主人公は誰なのだろう。それまで釈華の目線で進んでいた物語が、終盤で突然、紗花という風俗嬢に切り替わるが、輪廻転生も感じさせるような解釈を委ねる終わり方をする。これはすべて紗花が作り上げた物語だった?と数秒ほど混乱してみたりもしたが、やはり無理がある。試しにネットで検索したところ、小説の主人公というのは物語の中で変化した人だ、という専門家の主張を基に、"この本の主人公は釈華ではなく田中さんではないか"と結論付けているブログ記事を見つけた。なるほど。たしかに、釈華は一貫して悪態をつき、欲望し続ける。そしてその不便な身体を補うように増大した釈華の念は、歪な欲望を生み出し、ブログ記事を残し、生前、死後と人々を感化させていく。つまり、釈華が釈華として生きているだけで、周囲の人間が感化され、彼女の物語に引き込まれていくのだ。だから、最終的に自身の欲望が間接的に叶えられるという因果関係から、時空を超えた人の奇妙な繋がりを感じ、輪廻転生を見たような気がしたのだらう。とはいえ、この物語の主人公はやはり釈華だと言いたい。何よりこれは、釈華が作り上げた、釈華による、釈華のための物語だから。

 驚くことに、これを書いている間にまた新たな発見があった。この本に関して言葉を紡ごうとすればするほど、自意識に絡め取られ、言葉が空回りしてしまうということだ。もっともっと、と欲が増大してくるにつれ、そういうところだぞ、とツッコみが聞こえてきた。 例えば、分かりやすく伝えるために何か、体験談を披露して共感を示したりすることも出来はするが、私から出る言葉である以上、それはどこまでいっても健常者が作り上げた、健常者による、健常者のための苦悩になってしまう。そのように易々と健常者のための社会に還元することは、この本の存在意義を軽視しているようで、だから、そういったことを書くのが少し憚られた。

 ライブ帰りの高揚感で、空間の歪んだ夜道を歩いているような気分だ。釈華が心に棲みついた私がこれから、どう変わっていくのかは分からない。今はただぼんやりと、視界に入るか細い腕に畏怖しながら、釈華よりは幾ばくか健康な二本足で立ち竦む姿が見えている。音楽が鳴り止んだその瞬間、足裏から湧き上がった理性が地面を捕まえて、僅かに揺れた身体の芯を捉えた。

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