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忘却は最大の愛

哲学者の永井均さんの本に「忘却は最大の愛である」と書かれていた。まさにその通りだと思う。だから、日本は愛に生きる国である。緩やかに、しかし確実に自死への道を歩む。享楽と哀愁に包まれ、狂気さながらに、皆が一体となって忘却し続けることで、存在しえる国だからだ。

それでは、私のようにいつまでたっても忘却することができない厄介者はどうすればいいのか。

こうして、刺々しくなりだすといつも、祖父のことを思い出す。孤独で、口数が少なく、囲碁と書道が趣味の頑固爺。祖父には一体、何が見えていたのか。どんな未来を想像していたのか。頑なに、深淵を覗かせまいと周囲の人々を突っぱね続けた祖父が初めて見せた、なんとも不気味な満面の笑みを、私はいつまでも忘れることが出来ない。

子供は皆、望まれて産まれてくるとどこかで聞いたことがあるが、そんなものは大嘘だ。ちっとも歓迎されていないじゃないか。生きているだけで誰かが傷付く、そんなのはもう懲り懲りだ。そんな目で見ないでくれ。悲しい顔を、しないでくれ。


私は沖縄と本土の両方にルーツを持つ者として、アイデンティティについては悩み続けてきた。しかし、次第にこれはアイデンティティの問題ではないと気付き始める。そんな可愛いものではなく、もっともっと、ヒトが翻弄され続けている根深い業のようなものだった。だから、憎しみに抗い愛に生きる日本はやはり、美しい。


なんだか強がりに聞こえるかもしれないが、別に、意図的に忘れるまいとしているわけではない。細胞が反応してしまうのだ。身体がはち切れそうなほど、脳ミソが壊れるほどに抗っても、生存本能が次々に細胞分裂を促し、存在し続けようと努めてくる。自分が怖くてたまらない。 こんな化け物、私の手に負えない。


 生を受けた瞬間から有限な生き物である我々には、できることが限られている。もはや歴史が、言語が、時間が憎い。今では、例えば国家というような、特定の分かりやすい権力を憎みたいという感覚はなくなった。それは、どこまでいってもイタチごっこで、人間の普遍的な欲望に基づくものだからだ。

それにしても、いま生きている人間に対して強い憎しみを抱くことは減ったが、故人が忘れないで、と追いかけてくる場合はどうしたら良いのだろう。呪いとはまた少し違っていて、必ずしも苦しめられることばかりではなく、幾度となくこの命を救ってくれた。だが同時に、私の存在の全てを縛り付けるこれを、疎ましく感じていることもまた事実だった。


幸か不幸か、この地球は丸い。

自分から生み出されたものはいずれ、自分の元に帰ってくるようにできている。例えば、自分から何か優しくないものが飛び出し、他者に八つ当たりをしながら、また自分を傷付けに戻ってくることは誰でも経験があるのではないだろうか。それなら極力、自分や他者を苦しめる要素をこれ以上は排出したくないものだが、それも不可能なのだ。それは単純に、人間が不完全な生き物だから。だから人間は倫理や道徳を育てることができるし、社会を構築できる。他の生き物と共生するように進化してきた人間は、生存本能を巧みに飼い慣らす必要がある。

 しかし、それではやはり、私は愛と憎しみの中で葛藤し続けて死ぬしかないのか。もう、街中でそっと佇む一本の木になってしまいたい。できれば、ときどき、鳥などが遊びに来れば嬉しい。


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