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14歳 2000文字

※阪神大震災・東日本大震災について書いています。地震のことを思い出したくない方は読まない方が良いと思います※

 阪神大震災があってサリンが撒かれてエヴァンゲリオンが放送されてWindows95が発売された1995年、私は14歳だった。

 14歳の思い出を書くには二千文字では足りない。今もかなりのことを覚えているのは人生に影響を与えた出来事が多すぎたからだ。なので震災のことを書こうと思う。14歳の時の出来事なのでテーマとはかけ離れていないだろう。

 阪神大震災は本当に恐ろしかった。想像して欲しい。兄弟揃って寝ていたら体が浮いたのだ。急に布団が沈んだように感じ、5分程上下にバウンド。実際は数秒だったがそれほどまでに長く感じた。もしかしたらこの状態を走馬灯と言うのかもしれない。

 私が住む大阪府堺市は余り被害が無かった。我が家は皿一枚割れることなく、朝のニュースで「地震発生!神戸で火事も起きてます!電車は止まってます!」みたいな感じだった。7:45には家を出て学校に向かっていたので、被害の全貌は分からないし、教師も授業やらで被害を把握していなかった。多少の余震があってもアトラクションみたいに「揺れてる~!」と楽しんでいたくらいだ。異変があったのは3時間目からだ。教師が入ってくるなりテレビを付けた。そこには中学二年生でも分かる火の海と完全に破壊された神戸の街があった。神戸には何度も行ったことがある。ポートピアランド、モザイク、AOIA、思い出が一杯だ。ちなみにAOIAは地震による液状化現象で廃業した。
「今、神戸が大変なことになっている。また地震が来るかもしれないからその時は避難訓練で行ったように机の下に隠れなさい」
 その日は何度も机の下に隠れた。非日常の光景を日常だと認識した瞬間、その非日常は日常のすぐ近くにあると理解したのだ。

 その日の夕刊、次の日の朝刊、お昼のニュース、夕刊、大きな見出し「死者○○名」が信じられない勢いで増えていく。朝と夜で文字通り桁が違うのだ。神戸の親類が亡くなり学校を休む人も出てきた。テレビCMはACの広告ばかりとなり、関西人は競輪の中野浩一が「ポイ捨て禁止~!」と叫ぶCMを無限に見ることになった。

 私の父はビルメンテナンス、主にビル清掃の会社を経営していた。そして神戸の取引先も多い。携帯電話も一般的で無かった当時、父は自宅で電話の前にかじり付き、上からの指示を仰ぎ、仕事の予定などの変更に追われていた。三宮での仕事があり、連絡がつかないのでとりあえず向かうと高速道路は大渋滞でその日の深夜に「現場にも辿り着けなかった」と帰宅したのを覚えている。
 父は何でも子供に多くを見せ、経験させる。そしてその一環として、電車が灘駅まで復旧してすぐの時「神戸に行くぞ」と私や兄たちに言った。後日の清掃業務に備えて道具を置きに行くミッションだと伝えられ向かうことになった。

 リュックやバッグに入るだけの洗剤や清掃道具を詰め、電車に揺られる。大阪から神戸方面は信じられないくらい混んでいた。父親と扉に押し付けられるように電車内に立つ。外を眺めていると、言葉を失った。最初は屋根にブルーシートがかかった家、次は外壁などが崩れた家、次は傾き崩壊寸前の家、そして灘に到着間近には、家が存在しなかった。殆どが地震により破壊されていたのだ。あるべき物がない風景。これは、何よりも恐ろしい。多くの人が住んでいた街が消えたのだ。本当に消えた。所々に家はあるが、誤差の範囲と思える程度にしか残っていない。

 灘駅で下りる。駅以外は瓦礫しかない。残った家があったと思ったら2階部分が1階を押しつぶしている家だった。あちこちに「火気厳禁!」と書かれた張り紙があるが、野外なのにガス臭漂うこの場所で煙草を吸う人間もいないだろう。もう避難は完了おり、ボランティアをはじめ多くの人は灘から歩いて三宮などに向かう。駅の周りでは大人用おむつを配るボランティアがおり、水の出る場所の案内も同時にしていた。2階が1階を押し潰していた家に近づくと張り紙がある。
「おばあちゃんは以外は無事です○○体育館に避難しています」
 この場所で人が死んだ。この場所だけじゃない。頭を右から左に振れば七夕飾りのように色とりどりで大量の安否情報・避難場所情報が目に入る。
「よう見とけ。俺らは運が良かっただけや」
 目に涙を溜めながら話す父の後ろに付いて歩いていると目的のビルに着いた「倒壊の危険あり」の張り紙があったが、父は子供たちのカバンを取り、1人で荷物を置くためにビルに入った。父が戻って来るまで数分だったのに数時間にも感じた。
 少し神戸の街を歩いたが、私が知っている神戸では無かった。それを知るためにも父は私たちを連れて来たのだろう。大阪に戻る前、駅に入ろうとした父が振り返り、灘の街に手を合わせ、私たちも真似をして手を合わせた。

 以上が阪神大震災の思い出だ。この経験があったからこそ東日本大震災の時には冷静に行動できたのだろう。東日本大震災の時、渋谷のバイト先にいた。夜まで待機し、帰ろうにも電車が動いていない。渋谷から歩いて新宿に向かう途中、喫煙所がありテレビでニュースが流されていた。あの時の神戸のように炎に包まれる気仙沼市を見て、ただただ多くの人の無事を祈った。

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