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エッセイに共感、偉大なる酒の力。

エッセイが好きでよく読んでいる。

自分が生きてきた中で、うまく言葉にできないことが文章になっていると嬉しくて、
「あーー、それ分かります!」
という心の叫びが度々訪れ、それだけで作家さんと仲良くなれた気がするのだ、勝手に。


昨日読んだエッセイでの大きな共感は、男の人を「くん」付けで呼ぶのに抵抗があるというものだった。分かる。すごく分かる。
その方は女子高だったから、という理由があった。
私はずっと共学だったけれど、何の因果かコミュニケーション回避型だということに大人になってから気づいた。おそらくそれが原因なのではないかと思っている。
ゆえに老若男女関係なく基本敬語で話すためか、人との距離がなかなか縮まらない。
敬語でありながらコミュ力の高いタラちゃんがうらやましいですー。

今や娘の小学校は男の子も「さん」で呼ばれ、あだ名も禁止である。なんだかさみしいという声も聞くが、迷いなく名前を呼び合えるのは私みたいな人間からすれば心地よい時代ともいえよう。

「くん」呼びに対して、歳がかなり離れている年下ならまあまあ大丈夫。小学生とか。
苗字ならギリ大丈夫。
みんなが呼んでいるあだ名なら大丈夫(シブがき隊のような。でも、面と向かっては呼べないかも)。
ちなみに「先輩」とか「後輩」とかもこそばゆい。

そもそも名前を呼ぶのが苦手で、あの〜とか、そちらさんは?的な手のジェスチャーとかで避けて通るほうだ。

ちょっと変わったあだ名が浸透している方だと、「さん」をつけることによってバカにしてる感じになる。
「おさるさん」
「こあらさん」
ね。
だからといって、そのあだ名を親しくもないのに呼んでいいのか分からず、かといって、本名を呼ぶのにも違和感を覚えるし、そもそも本名も分からないことも多いし、もしかすると本人も本名がしっくりきていないんだろうなと思うことも。
そういうときは、必殺「あの〜」の登場。または、話せないまま関係は悪化も好転もしない。


そんな私ですが、名前を呼ばれるのはすごく嬉しい。名前を覚えていてもらえるのは幸せだ。

実のところ人との関わりが好きなのに、うまくできなくて、人生の前半であきらめて拗ねてしまった末に誕生した部類のコミュ症。この指とまれ!

本当は私もいっぱい名前を呼んで話しかけたいのだ。
フランクに。欧米のように。
「お〜!○○!元気?」って。
なんならハグまでいきたい。

最初で「○○って呼んでね!」なんて笑顔で言われたら心底安心して無駄に連呼したいくらいだが日常生活において初対面でそんな人ほとんどいないのが現実。全国民に「呼ばれたい名前カード」を首からぶら下げていてほしい。
きっと、絶対、いい世の中になる。

ちなみに、酔っ払っていたら、すべての問題は片付く。調子がよければ誰彼構わず自分からハグまで行かせてもらうほどの余裕だ。
ハッピーハッピー超ハッピーみんなトモダチ〜!
そんな気分なのである。 

なので酔っ払ったときに会っている人たちに、昼間遭遇するのは非常に厳しいものがある。
とんだ無礼をしたかもしれず、まるでワンナイトをしてしまったかのような心境に陥っていることもある。ワンナイト知らんけれども。
酔っ払っているときは、脳内にある言葉の保管庫は完全に機能を失い、ストッパーは破壊され、思ったと同時に口に出る。
最低限人を傷つけないように、とかはあるのかもしれないけど、嫌われるかもしれない恐怖や恥じらいなど何処吹く風だ。
記憶が曖昧なのは唯一の救いである。

世界中の心の広いみんなの名前を呼んでトモダチになりたい。
もちろん酒の力を借りて。 

居酒屋の皆様、夜のお店の皆様、どうかこの時代を乗り越えてください。

I need you!




とはいえこれからはお酒をのんでいないときも、いろんな人の名前を呼んでみたいと思う。
探り探り。

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