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黄色いシュシュ

 電車の窓の向こうに海が広がると、引き返したくなった。運転士さん、止めて止めて、バックして。心の中で頼んだりもした。
 駅で電車を降り、改札口を出て歩きだして……その道の先に海が見えたとたん、駆けだしたくなった。
 だから、わざと足を止めて深呼吸した。道の脇の細い川から海の匂いがする。一年前もそうだった。ここでクンクン、かいだよね。
 わたし、海水浴なんか好きじゃない。
 泳げないし、日焼けしたくないし。潮風はベタつくし、足の指に砂がはさまるし。
 それなのに一年前の今日、ここに来たのは、すず姉が夏のあいだ、浜辺の旅館で泊まりこみのアルバイトをしていたからだ。
 すず姉は隣の家の大学生。わたしはずっと、妹みたいにかわいがってもらっている。
 去年、「夏休み中、すず姉に会えないの?」って口を尖らせたわたしに、「さやちゃんがわたしのところに遊びにくればいいんじゃない?」と、すず姉が提案してくれた。
「うん、もう中学生だもんね。わたしひとりで電車に乗って、行ってみる!」
 それで来たのだ。一年前の今日、ここに。

 海辺の道路を渡ると、歩道から砂浜に降りる階段がある。
 子どもは夏休みでも、今日は平日だから、大人は会社に行ったりしているんだろうな。空が曇ってるせいもあるのかもしれない。浜には、パラソルやテントがぽつんぽつんと見えるだけ。波打ち際でおにごっこ中の子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくるけれど、一年前よりずっと静かだ。
 海水浴場に来るのに、水着どころか、ビーチサンダルも持ってこなかったわたしは、パーカーのフードをかぶると、海を見ながら歩道を進んだ。
 道沿いには、おみやげの店や食事をする店が並んでいる。「かき氷」「やきそば」「とれたて海の幸」。目に入る看板の文字も一年前と変わっていない。
 このまま行けば、すず姉がバイトしていた旅館が見えてくる。
 一年前の今日は週末だった。おまけに快晴で、波も砂もまばゆく光って、目を開けているのもつらかった。大勢の人でにぎわい、駐車場を目指す車がこの道に列を作っていた。
 すず姉は忙しすぎた。その旅館には、泊まらない人も入れる温泉や、お刺身やてんぷらが人気の食堂もあるから、一日じゅう多くのお客さんが来て、すず姉は「てんてこまい」していた。「てんてこまい」という言葉の使い方を、わたしはその日、初めて知った。
 働くすず姉は、キリッとしてかっこよかった。でも、一緒に遊べない。リュックに入れてきた水着も出番なしだった。
「すず姉の休憩時間まで散歩してくるね」
「遠くへ行っちゃだめよ、さやちゃん。知らない人に声をかけられても、無視するのよ」
 そんな会話がやっとだった。
 旅館でリュックを預かってもらうと、パーカーのフードをかぶって、わたしは砂浜に降りた。裸足になり、靴を手にぶら下げて、人が少ないほうへ歩いた。
 海水浴場の端っこでは、コンクリートの壁みたいなものが沖へと突きだしている。
 理由もなくそちらに向かった。熱い砂に、わざと足を埋めながら。
 それが、一年前の今日……。

「あら、あんた! お嬢ちゃん!」
 信号待ちの車から声をかけられた。おばさんが運転席の窓を開けて、驚いたようにわたしを見ている。誰?
「去年、すずちゃんに会いにきた子よね?」
 あの旅館の人らしい。うなずくわたしに、にこにこして、こういった。
「また来てくれて、うれしいわ。すずちゃんには来てもらえなかったけど。しかたないよね、就活とか、忙しいもんね、大学生は」
 そう、すず姉は今年はバイトをしていないのだけど……突然話しかけられたわたしは返事もできないままだし、きっと表情も不愛想だろう。それが気にならないのか、おばさんは笑顔で続けた。
「シンジローも今年は高校受験だから来ないって……あ、たいへん! じゃあね、うちにも寄ってね!」
 おばさんがあわてたのは、信号が青になったから。後ろの車にクラクションを鳴らされたからだ。
 車は走り去り、わたしは立ち尽くしていた。
 シンジローモ、コトシハ、コウコウジュケンダカラ、コナイ……。
「中三? そうか、ひとつ年上なんだ」
 つぶやいてみた。息苦しくて、急いで空気を吸った。海の匂いだ。自分が今どこにいるかに改めて思いあたって、泣きたくなった。

 一年前、すず姉と遊べないわたしは、ひとり、突堤近くの波打ち際まで行った。
 立ち止まったら、素足に波が寄ってきた。濡れないように後ずさりをしながら、目についた貝殻を拾い上げようとしたとき、
「おーい!」
 近くで声がした。
「おいってば」
 声はすぐ後ろに来た。ハッとふりかえったら、砂に足を取られた。
「うわ、あぶね……!」
 転びかけるわたしの腕をつかみ、支えてくれたのがシンジローだった。
「あ、あの、誰、ですか?」
 すず姉には「無視するのよ」といわれた。でも、助けてくれたのはわかる。お礼はいってもいい? この男の子は何者? 気づかなかったけど、わたし、尾行されてたの?
 混乱していたから、にらんでしまったんだと思う。シンジローは焦った顔でわたしの腕から手を離し、反対の手を差し出してきた。
 まるで手品だ。そのてのひらに黄色いシュシュが、ぽん! と現れた。
 あわててフードを脱ぎ、探ってみた。ポニーテールにした髪にはゴムの感触しかない。
「そのフードをかぶるとき、落ちたんだよ。おれ、見てて、拾って、追いかけたけど……歩くの速いな、見失いかけた」
 彼の背の高さは、わたしと同じくらい。学年も同じかもしれないと思った。もう友だちだよと言いたげな口調に警戒しながら、わたしはシュシュを受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
 シンジローは、シュシュに向けていった。
「それ、目立つよな。店の中、わりと暗いけど、金色に光って見えた」
「……店?」
「ああ、食堂のこと。すずさんに会いにきた子だろ? おれ、あの旅館の親戚。毎年、夏休みに遊びにくんの」
 それなら、「知らない人」ともいえないのかな。たけど、なれなれしい感じが、ちょっとイヤ。わたしはわざと水平線のほうを向き、シュシュを髪に巻きつけながらいった。
「拾ってくれて助かりました。わたし、地味で平凡で存在感がないから、これがないと、すず姉に見つけてもらえないと思って」
 つんつんしてみせたのに、シンジローは声をあげて笑った。
「何いってんだよー。見失わなかったんだぞー。存在感は充分だって!」
「お世辞は要らないです」
「もう、顔も覚えたし」
「すぐ忘れちゃいますよ」
「一年たっても二年たっても、覚えてる!」
 いい加減なことをいうヤツ! あきれてその笑顔を見た……そのときだった。遠くから少年の集団が呼んだ。
「シンジロー、行くぞー!」って。
 それで、わたしはその名を知ったのだ。
 知ったとたん、シンジローは「じゃ!」と手をあげて走り去ってしまった。
 午後遅く、「てんてこまい」が終わったすず姉に、マンゴーのかき氷をおごってもらった。夕方近く、帰りの電車の時刻まで浜にいたのに、シンジローには会わなかった。
 それきり、シンジローのことは思い出さなかった。思い出さないはずだった。
 なのに……おかしい……なぜだろう……月日がたつほど、気になりだしたのだ。
 本当に、一年たってもわたしを覚えているのかな? と。
 だから、ちょうど一年後の今日、この砂浜に……突堤のそばに来たのだけれど。
「わたしって、バカみたい」
 ううん、バカだ。断言して、バカ。
 あの黄色いシュシュは今、わたしの部屋の引き出しの中。髪は、先月ショートにした。「シンジローがわたしを見つけられなくてもしかたないよね」って思えるように。
 なんで、シンジローが見つけようとしてくれると期待してしまったんだろう。
 今日は、一年前のあの日より波が高い。
 ザン! と音を立てて砕け、しゃーっと足元に滑ってくる波に向けていった。
「バカすぎる!」
「誰が?」
 突然、後ろで声がした。
 ふりむくと、シンジローがいた。
 びっくりして、思わず責めた。
「受験生なのに!」
 シンジローは目を見張り、口をつぐんだ。それから不意に、軽やかに笑いだした。
「情報通だなぁ! 確かにおれは受験生です。それでも、今日はここに来ないといけない、証明しないといけない、そう思ったから」
「証明って、何を?」
「顔を覚えたこと」
 シンジローがうなずいたとき、また波が砕けた。わたしの胸で、ザン! と。


(愛知県教育振興会「子とともに ゆう&ゆう」2019年度7月号掲載)


ときどき取材して書きました。18年度の「黒い味噌汁」は岡崎、この作品のためには内海に行きました。といっても、書いたのは春。砂浜には誰もいませんでした。海の近くに住んだことがないわたしには、町の匂いも新鮮でした。ひどい口内炎ができていて、この町で薬を買ったのも思い出です。

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