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不純物のうつくしさ。

正直僕はあまり音楽のことがわからない。

一定のレベルを超えていたら、だいたいどんな演奏を見てもうまいと思うし、誰の曲を聴いてもいいと思う。ここのフレーズがいいよねとか、この楽器のここが美味しいよね、とかでテンション上がっている人を見ると、純粋な音楽人だなあと羨ましくなる。

それを自覚したきっかけは、作曲家としてデビューした先輩のインタビュー。ひとつひとつの音にこだわり抜く姿勢と、それを心から楽しんでいる姿に、自分は音楽家としては「不純なのではないか?」と不安になった。そこからしばらく、そのことがコンプレックスとしてまとわりつく。

もしかしたら僕は半端な気持ちで音楽をやっているのではないか?演奏を楽しむ心も、音へのこだわりも、あの人に比べたら全然足りていないのに、音楽家を名乗って大丈夫なのか?そもそも僕は音楽家なのか?そんな疑問が頭から離れなかった。

転機となったのは「僕はなぜ歌っているのだろう」と考えたことだった。日々の中で感じた苦しさやさびしさ、時には嬉しさやよろこびも、心から溢れ出しそうな想いをどうにか形にしたい。ただの日記とは違って、「分かってほしい」と「分かりたい」の間にある「分かち合う」がやりたかった。

曲を作って歌う根底には「分かち合いたい」があり、そこに必要なものは「言葉」だった。歌詞のために曲を書いている。音が好きな人ではなく、想いを分かち合うためにしっくりくる表現として歌を選んでいる。いわゆる物書きとしても半端な自分だけど、音と言葉を組み合わせることで埋めあえている。

デスノートでは、半人前であるニアとメロが補い合い夜神月を倒した。天才と言われたLを、力を合わせることで超えた。輝かしく見える音楽人はたくさんいるけど、その一点で突き抜けるだけが答えじゃない。まず言葉があって、音が足されて、後藤大の音楽になる。それを好きと笑ってくれる人がいる。

僕はよくライブのMCを褒めてもらえる。音楽家としてそれはどうなのだろうと悩んだこともある。ライブハウスの人に「MCと曲とどっちが大事なん?」と聞かれて、曲だと即答できなかった過去もある。それは僕にとって「MCという今の想い」に曲がついている感覚があるからだ。MCが歌詞なのだ。

MCのために曲があり、曲のためにMCがある。どちらもセットで「ライブという楽曲」なのだから、どちらが大事と決められるはずがなかったのである。むしろ言葉が先の自分には、MCありきで曲が決まる。だからMCを褒められるのは、曲を褒められるのと同じぐらいうれしい。

純粋な音楽家でも、純粋な物書きでもない。だけどその2つが組み合わさって「後藤大というミュージシャン」は今日も曲を作って歌っている。それを好きになってくれる人がいる。そこには胸をはって歌っていけるのではないかと思っている。


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