敬意がないと尊敬できない。
最近自分の中でよく出てくる言葉がある。
「敬意」だ。
言葉が汚くなる、人にとやかく言いたくなる、そんな時のことを考えるとそこにはいつも「敬意」がひっついてくる。
以前この言葉の定義づけをしたのだけれど、いつの間にかボンヤリしているなあと、敬意敬意と言うたびに感じていた。
そこで改めておさらいすることにした。
敬意とは「立場、年齢、性別、能力、価値観などにかかわらず、相手や自分を対等な素晴らしい人格だと思い、扱うこと」だ。
まず敬と意に分けて考えよう。
敬う=素晴らしいものとして扱う
意=①心の動き、心に思っていること ②物事に込められている内容
つまり「相手を素晴らしい存在だと心で思う」と意味付けできる。
では「対等」はどこから出てきたのか。
対等の意味は「優劣がなく同じであること」だ。
敬意は対等でなければ持つことができない。
相手のことを高く見過ぎると、敬う気持ちはあるが自分の考えを放棄して無条件に信じ込んでしまう。
それは崇拝だ。相手のことをちゃんと見ていない。
逆に相手を低く見過ぎる場合、これはもうストレートに敬う気持ちがない。立場や価値観を自分の思い込みで否定してしまう。これも相手をちゃんと見ていない。
つまり対等でなければ相手を素晴らしい「人格」として扱うことから遠ざかってしまうのだ。上に見ても下に見ても、見えているのは自分のイメージの中の相手だ。
そして自分に対しても対等でなければいけない。他人と比べて自分を卑下したり傲慢になった時点で上下が生まれる。
相手が上下しても、自分が上下しても、結果は同じだ。
相手も自分も優劣のない素晴らしい人格だと考えること。その人のことを本当の意味で見るにはそれが不可欠なのだ。
だから敬意の定義の中に「対等」という言葉を入れた。
尊敬というのは、相手をちゃんと見て、自分の意思で敬う気持ちを持つことだと考える。
崇めるのは崇拝で、見下すのは蔑みだ。
尊敬は対等でないとできない。
だから敬意がないと尊敬はできないのだ。
どれだけ相手をすごいと思っていたとしても。
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