ドサクサ日記 12/12-18 2022
12日。
死んだ後には何も持って行けないというのは当たり前のことだと思う。近い将来に死を予感する年齢になったときに、お金や資産について自分はどう考えるのだろう。機材は仕事のために集めたものがいくらかある。文化遺産的な機材は誰かが引き継いで使ってくれたらいいなと思う。使用価値を金銭に変換しないこと。死ぬ前にすべて現金化して手元に置くのだグヘヘ、みたいな爺さんにはなりたくない。
13日。
楽曲制作でもっとも感動するのはデモを録音しているときかもしれない。ざっくりと弾き語りで歌の構成を作ってから、リズムのパターンを決める。ドラムに合わせてギターをダビングして、ベースを録音する。その後で考えてあった鼻歌を録音して、その鼻歌を聴きながら歌詞を書く。作曲のパターンはいくつもあるが、この方法の場合、歌詞を書いて歌うときが最も尊い瞬間だと感じる。泣くこともある。
14日。
丸亀製麺とTOKIOの組み合わせ。こだわってる感と楽しんでる感が饂飩という食べ物に丁度いい。殴り合いながら商品開発している図を考えると、食べる前に萎えてしまう。しかし、適度に緊張感があったほうが美味しいものができるだろう。全国の味噌を研究したというくだりが、程よく妄想を掻き立ててニヤニヤしてしまう。提供の際、現場の手間を増やさない作りになっているのがすごいと思った。
15日。
連日、丸亀製麺について書くのはどうかと思うが、件の「豚汁饂飩」が自分の想像と美味しさの向きがまったく違っていたので、そのギャップを埋めるべく肉饂飩を食べた。しかしながら、dポイント、PayPay、d払い、クレジット、現金払い、など会計のところがやや混乱しており、肉饂飩は出汁をかけても熱々感が復活しないくらい冷めてしまった。悲しいことだ。ポイントがつく何らかのサービスに参加しているのかを訊ねるだけで、数秒のロスがある。バーコードがなかなか読み取れないみたいなことも頻発している。店に落ち度はないように思う。時代のニーズに応えているだけだろう。私たちが饂飩を食べるくらいの機会でも何らかのポイントを貯めたいと願っていることが、饂飩の熱々ポイントを下げているだけだとも言える。これ以上新しいポイントを集めないで暮らす方法を考えないといけない。
16日。
自分の作りたいハンバーガーと地域が求めているハンバーガーが違う、みたいなハンバーガー屋に入って、いろいろ考えてしまった。店主が実現したいこだわりのハンバーガーが具現化されているのは美しい。しかしながら、商売が成り立たないと店は潰れてしまう。究極、マクドナルドでいいじゃん、みたいなところまで迎合していくと、店を持つ意味がなくなってしまう。悩ましいことだと思う。
17日。
ワールドカップが終わろうとしているが、斉藤幸平さんと金井真紀さんの記事を読んでもやもやとする。貧しい国から来た出稼ぎ労働者たちが、劣悪な環境のなかでつくったスタジアムで行われるスポーツの祭典。東京オリンピックだって似たような性質は持っていた。俺は多分に漏れず、そうした事実を半ば忘れてサッカー観戦をする。そうした構造が、少しずつ、でも確実に俺たちを踏んづけている。ちゃんと後ろめたさを抱えたい。抱えて何になるという言葉もあるだろう。しかし、何も感じなくなったら終わりだと思う。ワールドカップの裏でも、オリンピックの裏でも、大会の誘致と開催で信じられないくらいの富を得ている人がいる。それに対して、ほんの少しの分前で働く労働者たち。ボールを蹴ること自体に社会的で政治的なメッセージを込めることは不可能に近いが、例えば身に着けるものでも、何らか意思表示をしようとするチームや選手があることがこの大会の救いだと思う。
18日。
M-1の決勝戦をチラ見。チラ見では全く何のことだか分からなかったので、動画サイトに正式にアップロードされた動画を順繰りに観ていった。決戦はロングコートダディがむちゃくちゃ面白かった。これは好みの問題であって批評ではない。しかし、このような話芸の祭りが、全国区的な話題の的として成立しているところが強かで、やっぱりすごいと思うし、羨ましい。お笑いとはこういうものであり、テレビとはこういうものだというボースティングにも感じられた。毒舌を笑っていいのかしらと思いながらしっかり笑ってしまう自分の卑しい部分が明るみになり、その矛先が自分が属しているコミュニティの側に向くとイラっとする。そういう自分の小さい根性が画面の前に丸っと取り残されて、こうした芸の意義が時間を置いて露わになる。しかし、ストロングゼロを楽しく宣伝できるような能天気さは持てない。安価で強いアルコール飲料の社会的悪影響は、自己責任の範疇を超えているようにずっと感じている。資本主義経済のなかで善悪の判断や考察を一旦留保して、スポンサーの太鼓持ち的な性質を受け入れながら、何を笑い飛ばすのか。驚くほどナンセンスな、腹が捩れるほどの笑いで資本を掠め取ってやるのもある意味では反逆かもしれない。いや、本格的で無意識な収奪との一体化かもしれない。