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ドサクサ日記 7/10-16 2023

10日。
エンジニアを務めているLINKのギター録音が終わった。作品作りというのは、ムーと唸る瞬間を突き抜けて、これだ!という一瞬の美しさを記録できたときに、なんとも言えない幸福感がある。その一瞬を何度も聞き返して、違和感も含んだ幸福の連続帯のようにしていく。歪なところもあって当然。それでこそというか、真っ平な何かではなくて、作品というのは俺たちの生きた証みたいなものなのだ。

11日。
都内でソロの新曲の録音。才能のある人と一緒に作業できるのは楽しい。そのあとはエンジニアKのスタジオでドルビーアトモスの音源を聴き、東京の下町から中心部に移動して食事会&勉強会。自分のこれからの人生を、自分のためだけでなく、どうやって社会に投げ出すのか。それはとても大事な問いであるように思う。丸っと個人的な幸せや快楽に突き進んでいって、本当に良くなることなんてあるのか。

12日。
国立博物館で『古代メキシコ展』。大地に根ざした独自のカラーセンスに惹かれる。日本だって500年も遡れば、多くの人が髷を結って着物を来ていた。我々にとってはノスタルジックな風景でも、異郷から見れば不思議なことだろう。世界は自明のような顔をして均質化されてしまった。西洋的な衣服を纏い、そういう文化や風俗の連なりのなかで暮らしている。「ガラパゴス」みたいな言葉は、そうした西洋的な視点から放たれている。一方で私たちはそうした均質化のなかで、過去のこの土地、言うなれば日本との接続方法をどんどん失っている。100年前の森だってあっさりと伐採するし、大正時代の石の蔵は簡単に解体が決まる。それらを飛び越えて500年前とは繋がれない。中間にある文脈、技術、そういうものを焼き尽くして、古典に連なることの難しさ。文学ならともかく、物理的なもの、モノに張り付いている何かは、壊してしまえばそれまで。楽器だって機材だって同じこと。滅びてしまった文明の、楽器ひとつをとっても、一体どんな音で演奏されていたのかについては想像する以外にない。笛を吹いてみてその音階を把握できても、演奏されていた旋律は蘇らない。コンサートホールに楽団があり、スタジオにエンジニアがいる。そういう人たちが繋いでいるバトンもある。札束で叩かないでほしい。

13日。
行きずりの鰻屋に入店したところ、「仕込み中」だと断られた。昼に開いて夕方に閉店するようなシステムの店で、入店を断られるような時間ではなかった。うちの店には合わないとう判断だったのだろうか。少し腹が立ったが気を取り直して、湯治。温泉に入っても肩や腕の痛みはまったく引かない。参った。痛み止めを飲んでいるので、お酒も飲めない。ただ、旅館の食事はとても美味しかった。

14日。
スタジオでミックス作業。ほとんど闘病記のようになっているけれども、毎日肩や腕の痛みと闘っている。お灸を据えてみたり、揉んでみたり、痛みをいろいろな方法で誤魔化そうと頑張っているが、自分がやっていることは誤魔化そうとしているだけであって、根本的な解決ではない。もはや絶望的に痛いのだけれど、この痛みが根本的に解決する日はくるのだろうか。ミックスはうまく行った。嬉しい。

15日。
処方された薬も効かず、市販のEveも効かず、仕方がないので薬局でロキソニンのテープを買って貼ったところ、少し痛みが和らいだ。これでいいのかは分からない。痛いということがこれほどまでに辛いことだとは思わなかった。いや、一時的な痛みの辛さは知っていたと思う。痛みが継続すること、それが癒える見込みがないこと、それだけでこれほどまでに気持ちが暗くなるとは思わなかった。

16日。
日比谷野音でROTH BART BARONの『BEAR NIGHT4』に参加。この日のROTHはハーモニーのお化けみたいな編成で、一緒に演奏できることが幸せだった。幸福感と関係した物質が体内を駆け巡るのだと思う。身体の痛みも感じなくなって、久々に魂が開放された時間だった。終演後にはメンバーたちとハグをした。俺の身体と共に、確かな幸福がここにあると感じた。感情には形がなく、触ることはおろか、剥がすことも投げ飛ばすことも、引っ張ってくることもできない。インドの表現にならえば、感情は「やってくる」という感覚に近い。わたしたちの身体はその受け皿に過ぎないが、それが本当にあるのだと実感できるのは、この身体があるからだろう。強かで鈍い痛みとは違って、それはとても曖昧で儚いものだけれど、全身で感じた幸福が俺のすべてを生かしてくれる。そういう夜だったと思う。


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