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ドサクサ日記 6/10-16 2024

10日。
群馬県にあるmabanuaのプライベートスタジオを見学。スタジオにとって天井が高いことがこれほどまでに素敵なことなのかということがよく分かる場所だった。規模的には藤枝に予定している土蔵スタジオとほぼ同じサイズ。メジャーなバンドが使うには狭いかもしれないけれど、皆で工夫して使ってゆくには問題のないスペース。スタジオを準備するにあたって不安だったのは、土蔵のスペースを十分に使ったとしても、そこまで広くならないというところだった。けれども、4m以上の天井高を出せるところが魅力で、それは圧迫感の軽減のみならず、音響的なアドバンテージになる。懸念と期待の両方を抱えてプランニングを進めていたけれど、期待が膨らむような1日だった。マバと久々にゆっくり話せたのも嬉しかった。優しいけれど毒があって、才能溢れる素敵な人だと思う。また一緒に演奏したい。

11日。
東京フィールドワーク。Backpackers Japanのゲストハウスやカフェ、ブルワリーなどを見学させてもらった。静岡出身の自分にとっては東京の東側は縁遠い場所で、浅草のような観光地や大相撲の本拠地としての両国くらいしか知らなかったが、魅力的な場所や風景に出会った。面白い人が面白い場所を作って、そこに面白い人が集まる。そうしたリアルな交流や循環を目の当たりにすると、なんだか明るい気持ちになる。それらは広く日本中に点在していて、まとまった面になっているようには見えないけれど、こういう時代なので、いろいろな方法で繋がることができる。ボディ(建物、場所、人)がリアルにあることは重要だと思う。簡単に雲散霧消しない。そうした同時多発的なボディというか、この時代に居合わせた人生がテクノロジーで結ばれる。場合によっては死者や未来の世代とも交信できる。

12日。
年齢による変化で最も驚いたのは、爺さんみたいな時間に起きてしまうようになったことだ。例えば、21時くらいにうっかり寝床に入ってしまうと、2時か3時には目が覚めてしまう。おおよそ5時間くらいが、継続できる睡眠の目安になっている。入眠できないわけではないのが救いだけれど、若い頃のように、何もかも忘れたように眠ることができない。恐らく、寝るのも体力がいるからなのだと思う。

13日。
NOT WONKの加藤君と電話で話す。加藤君が企画している『FAHDAY』というフェスや、藤枝に作るスタジオやコミュニティスペースの構想について情報交換した。SNSは有益なところもあるけれど、使い方が難しいところもある。いろいろな感情が丸裸で、あるいはブーストされて溢れる場所でもあるから、疲弊している人も増えたと思う。ここでもまたリアルな場所や地域、人の繋がりの話になった。去年にグラストンバリーに行って感じたのは、「祭り」は自分たちでオーガナイズすることが大事なんだということだった。それもなるべく互助的で、DIY的なほうがいい。うっかりすればロックフェスはショウケースのようになってしまって、グラストンバリーだって商業的なニュアンスに侵食されるし、働く人と集う人の間に経済的なコントラストが生まれていた。移民たちが警備をしている会場で、リッチな白人が楽しむフェスに見えたとも言える。その昔に自分が恋焦がれたインディーとアートのフェスだったコーチェラは、ユニバーサルな音楽とインフルエンサーのための見本市のようでもある。負け惜しみではなく、もっとローカルな祭りに注目したいと思う。祭りじゃなくても、場所やコミュニティでもいい。加藤君と仲間たちの意思と取り組みが、苫小牧に根を張る未来を応援したい。俺も頑張りたい。

14日。
よっこらせと脳に下駄を履かせて、何週間か前に買った『現代思想』の2月号を読む。特集は「パレスチナから問う」。イスラエルの国防相の「我々は動物人間と戦っている」という言葉。人間を人間に劣る存在=動物と考えて、人間性を剥奪する。それがいかに酷い暴力なのかは想像すれば分かるけれど、戦争や殺戮はこうした論理の正当化によって行われている。保井啓志さんの論文は深いが身近な問題とも繋がっていて、深く考え込まずにはいられない。牛や豚だったら、殺していることを思い出しもせず、肉片を買って楽しく食べる。屠るという行為を外部化して、それを意識しないでもよくなっている。戦争も同じように外部化されている。血生臭さは漂白されて、エンタメにもなる。人間を動物的に扱うことは戦争の核心の問題だけれど、動物についての認識も十分に歪んでいて、むしろ根源だという指摘。

15日。
自分では殺すことができない生き物(例えば哺乳類)は食べない、みたいなことを実践した時期もあったけれど、回復力の衰えを感じてから食べるようにした。が、また揺らいでいる。とか言いつつ、焼肉屋への誘いを断れない。以前に行った時より、同じ値段なのにチジミがえらい薄くなっていて驚いた。また別の、物価や労働や賃金の問題が眼前に迫る。こういう思考を「思想が強い」と退けたくない。面倒臭がらずに、自分が関わったり抱えたりするあらゆる矛盾と向き合いたい。焼いた肉を食べながら、そこに横たわる無意識が、戦争の論理(人ではない存在は殺していい)に似ていることにちゃんと驚いて、むーと唸りつつも、口の中は唾液でいっぱいになる。イルカショーを眺めた夜に、獣肉を焼いて食べ、ジャーキーを犬に与える。戦国武将に感情移入して、城下町を巡り、貧困をめぐるドキュメンタリー番組に涙する。深夜にワンオペを任される老婆や外国人労働者を心配しながら、機材や物品の値上がりに憤怒に近い感情を抱き、何もかももう少し価格が安くならないかしらとか、宝くじでも当たらんかなと卑しいことを考える。高級ブランドのTシャツの虚像性に首を傾げながら、何らかの服を着て、バンドTシャツを売り歩く。物販は音楽活動の支えだと理解しているが、アクリルスタンドを軽蔑している。俺は卑怯なやつだから友達にはそれを伝えない。すべての矛盾にきっぱりを別れを告げて、誰しもが真っ直ぐに生きたとて、結局のところその潔癖さが私たちを人と人外に分け続けるのかもしれない。潔くも美しくもなく、それこそが混沌の拒否と思考の放棄か。矛盾に引き裂かれながら、なんとかやっていきたいと願う以外に、まともでなんかいられないと思う。それでも、誰もまともでなんかありはしない。

16日。
歌の録音とミックスを手伝った千葉さんのCDが発売になった。通販で買うと千葉さんが働くハンバーガーショップのハンバーガーがひとつ無料になる。しかし、問題なのは、このハンバーガーショップが神津島にあるということで、食べる場合にはフェリーか飛行機で神津島に行かねばならない。CDがまったく売れない時代にCDを作るのはある種の偏執や愛着によるものだけれど、それもまた良し。人生。