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ドサクサ日記 6/6-12 2022

6日。
熊本で家具屋の取り組みを取材。詳しい話は別途、ドサクサ日記の番外編を立ち上げて、そこに書こうと思っている。藤原辰史さんの『分解の哲学』にもあったように、エコでもSDGsでも作ることばかりが優先されている。廃棄物をどうやって自然に戻すべきかの議論がない。ゆえに、私たちはゴミに埋もれていくのだ。そうしたゴミ問題と真っ向から向き合っている人たちと会って、話を聞いた。

7日。
スタジオ作業。イコライザーはアナログよりもプラグインのほうが好きだといつも思う。一流の叩き上げエンジニアは耳だけで判断できるが、スタジオに入ったときにはDTMがあった我々は、音を視認するという文化にどっぷり浸かってしまっている(もちろんメーターは以前からあるけれど)。ピンポイントで音を判断するときは耳でもできるが、俯瞰した視点から眺められるのがプラグインのいいところだと思う。コンプは断然実機が好きだが、全体のアンサンブルのなかでは、プラグインのほうがニッチな役割を担えるように感じる。存在感の問題はとても面白い。全ての音に説得力のある処理がなされていても、結果的に魅力を潰し合うことが多々ある。「その隙間」にスッと入って欲しい音、ど真ん中に鎮座して欲しい音、いろいろな役割があって、まるで社会のようだとも思う。音楽は面白い。

8日。
かけ饂飩も食べたいが、ざる饂飩も食べたい。身体の内側から湧き上がる気持ちに真正面から応えるべく、両方を注文する。ふた玉の饂飩を啜りながら感じたのは、どちらも紛れもない饂飩であるということだった。ゆえに、かけ饂飩完食の時点で饂飩への欲がみるみると萎んだ。ふたつの欲求の根っこは同じで、どちらかが叶うと、饂飩への欲求そのものに巻き取られて反対側も萎む。良い勉強だった。

9日。
相対的な価値観のある種の危うさを思う。何らかの潮流に反逆することと、その潮流に乗ってどこまでも行くことは、まったく違うようで同じ性質なのだ。そこには相対的な価値がどっかりと腰を据えている。流行りモノがダサいという感覚から立ち上がるクールではなく、誰と比べるでもなく、自分がクールだと思うことを育むのが表現や創作の目的でもある。孤立無縁で、それを行うこと。勇気はいらない。

10日。
ミシマ社からいただいた『中学生から知りたいウクライナのこと』を読む。著者の藤原辰史さんと小山哲さんの誠実な解説と論考。私たちは簡単にニュースの消費者となり、巨視的な場所から物事を把握しようとする。しかし、どんなことでも、無数の、それぞれの生と現在が積み重なっている。太文字の見出しや、わかりやすい年号の列記と英雄主義が踏みつけるのは、僕たちの生活そのものでもある。

11日。
Yahoo!の山下達郎さんのインタビューが示唆的でとても良かった。私たちは「マーケットでの成功こそが音楽の成功である」ということを信じて疑わない社会を生きている。音楽は、その作品を作ることができたことが「成功」そのものだと俺は思う。しかし、「貧すれば鈍する」という言葉がある。そういう視点もやんわりと書いてある。「もうワンテイク」についての回想は軽やかだが、インディの現場には身に沁みるように響く。理想や理念に真っ向からぶつかって来る現実は、実際にまったく甘くはなく、はっきりとビターだと思う。音楽に込めるのだと語りながら、最後にヴィクトール・フランクルの『夜と霧』引く。どこからでも飲み込めるが、どこからでも深く広げられるような語り口だとも思う。私もあなたも、山下達郎ではない。これはとても大事なことだ。尊敬を、それぞれの実践に変えてこそ。

12日。
ツアーが楽しい。音楽の素晴らしいところは「その人がどう聞こえているのか」について、他人にはまったく分からないところだ。生まれた場所や育った環境、作品に対する感じ方までまるで違う人たちが、たった数時間や数分でも、言葉にならない瞬間を共有すること。私たちは何もかも違う。ただ、この一瞬やこの音を、それぞれの角度からそれぞれの言葉で、ある種の愛おしさと共に共有している。どんなに忌々しい相手とでも、何かを分かち合う可能性があるということ、それを音楽は指し示す。「私たちは繋がっている」という強い言葉ではなく、「もしかしたら繋がることができる瞬間があるかもしれない」くらいの弱い予感として、断絶と分断に溢れた世界や社会を、それぞれの場所から、少しだけ縫い合わせるエネルギーが音楽にはあると俺は思う。それは音楽以外のあらゆるものにも含まれている。