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ドサクサ日記 8/15-21 2022

15日。
中村佑介のイベントに出演するために天王寺へ。相変わらず突拍子もないところがあるが緻密に計算されているところもあって、一言では語れない人だと思う。冷静で論理的だが、瞬間湯沸かし器みたいなチャンネルも持っている。ゆるいけど鋭い。相反する性質は誰にでもある。だから人間は面白い。ただひとつの本当の私なんていうのは嘘っぱちで、私たちはフラフラと揺れる存在でもあるのだ。

16日。
こだわりというのは美しい。しかし、それは一面的なものであって、別の側面からはこじれ上がった性癖のような近寄り難さとして捉えられてしまうこともある。「だったら自分でやったらええやん」は最後まで言うのを躊躇われる言葉であり、それを言わない関係性が仲間だったり友達だったりする。が、関係性に寄りかかりすぎるといつか倒れる。世の中の多面性と決裂してこそのアートだとしても。

17日。
自分で修理したVOX AC15のスピーカーにMarshallのアンプヘッドを繋いで録音。とてもいい感じに鳴って嬉しい。その昔、ガンダムよろしく白いアンプと化して分解して以来外したまま放置していた背板を取り付け直したところ、低音もよく鳴るようになった。そういう理由でこの板はついていたのかと納得。音と構造の関係をよく考えれば当たり前のことだが、当時の俺にはまだ見えていない景色だった。勉強すると対象物に対する解像度が変わる。海面から出ている氷山の本体は、海のなかに丸っと浸かっている。故に海上からは見ることができない。なんだあんなものと近づいて行っては、ぶつかって沈没してしまう。自分の仕事を航海に例えるならば、それと似た様なものだろう。今でも、全容はほとんど見えていない。ただ、見えていないことについて意識的なことには意義がある。「無知の知」ってやつ。

18日。
六本木でラジオ番組の収録。大きな計算式のなかで、多くの事物が解析されてしまう時代。ただ、それぞれの人生や生活の入力と出力の間には、簡単には解析できない複雑な関係が存在している。一方で数学だけが語り得ることもある(世界の成り立ちとか)。その違いをよく考えないといけないなと思う。曖昧模糊とした概念が降り積もるように、それぞれの人生がある。世界はやっぱり言語でできている。

19日。
スタジオで作業。新曲のデモをチクチクと録音する。アジカンのデモは完成までの過程ですべてが新しい音に置き換わるので、妙に作り込んだりしない。どこまでも転がって行けるような余白を残すようにしている。反対にソロはデモと完成音源がシームレスにつながっている。要するに、そのまま使ってしまう音が多い。そういう意味では作り方が全く違う。今回はアジカンのでもなのでザックリとアレンジ。

20日。
Radioheadが『Bends』を制作したロンドンのスタジオで録音した楽曲を演奏し、クーラシェイカーとカサビアンの間で「It's just Rock'n Roll」と歌う。それは立川の質屋でジャンクギターを手にした後藤少年が、かつて夢見た世界ではなく、偶像性を引っぺがしたロックンロールを、現実の真ん中で身体化する瞬間でもあった。バンドは、音楽は、俺の人生である。とても素敵な1日だった。OasisやWeezerの前で演奏した日も忘れがたいが、また別の良さ。大雨のなかありがとう。

21日。
Movin' On UPのイントロ、スクリーマデリカのアートワークがプリントされた衣装のボビー。何もかもが最高だった。悩みも憤りも反省も後悔も抱えたまま、ロックンロールは転がってゆく。イェー!!と声にならない声で全身を震わせながら、無声のままフロアでひたすら踊った。無垢で潔癖な人間なんてあり得ない。でも、ありのままでも、幸せに踊ることができる。アジカンのステージも最高だった。