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ドサクサ日記 5/1-7 2023

5月1日
川上未映子さんの『黄色い家』を読んだ。人々は様々な角度で人生を歩み、その角度をほとんど選べないまま、複雑な人生の選択を強いられている。「お金」というひとつの言葉と概念とその存在にも、いくつかの響きと、信じられないくらい多くの解釈や意味や怨念や愛着などがこびり着いている。フェアとは呼び難いこの社会の、それぞれの人生の、まったく想像もつかないような角度に挑むのが「書く」ということで、川上さんはデビューしたときから圧倒的な何かでそれを成し遂げている。素敵だなという言葉だけでは済まされない、嫉妬とか畏怖とかが混じった感情を俺は持つ。お金がすべてだなんて信じている人は少ないのに、いつだって俺たちはお金がすべてみたいな顔をした世間に踏みつけられてヘトヘトになる。そうした不条理のなかにでも、一筋のひかりを俺は見たい。ただそれは、この社会がなんとなく良い感じにそれぞれに救いを用意しているだろう、と信じることではない。むしろその逆で、この救いのなさに立ち向かってみせることこそが、ひかりなのだと思う。最悪の、地獄の底のようなボキャブラリーからクソという言葉を握りしめるしかない瞬間や人生を、じっくり抱きしめるように「物語」に立ち向かうこと。それは、ひかりそのものだと思う。俺も自分の場所でじっとりと頑張りたい。

2日。
「ロックミュージシャンかく在るべし」的なことを言っているひとには辟易としている。そういう人たちは、誰かが期待に応えるような振る舞いをしたときには自分の手柄のように溜飲を下げるが、誰かが苦境に直面したときには助けてくれたりはしない。ほとんど興味の範囲外という感じで、普段からどんなことを考えて行動しているかは知りもしないし、場合によっては「思うてたんと違う!」みたいな感じで攻撃してくることもある。誰かに自分の思いを代弁させるのは、とても下品なことだと思う。また立場に関わらず、誰かの思いを代弁してやろうだなんていうのも思い上がりで、本来は自分の場所から自分の言葉で語るべきなのだ。何を語り、何を歌い、何を綴るのかは私のものであって、誰のものでもない。表現者はどうあるべきかという質問を受けることが多いが、「好きにしたらいい」としか言えない。

3日。
憲法記念日。究極の丸腰というのは恐ろしいもので、絶対に先制攻撃できない国や人を相手には「正当防衛」という言葉が無効化される。戦争や侵略が正当化されるときの常套句は「正当防衛」であることは誰もが知っている。憲法に「戦争できない」と書いてある国だと侵略の対象になってしまう、のではなくて、むしろその逆。そんな国に攻め込めば、純度100%の侵略になる。丸腰の強さはそこにある。

4日。
JAPAN JAM。とても楽しい夜だった。我々が演奏をしている間に『サーフブンガクカマクラ(完全版)』のリリースが発表になった(ちなみに11枚目のオリジナルアルバムではない)。実は『プラネットフォークス』より前に作業に取り掛かっていて、こちらのデモの完成を待って『プラネットフォークス』の作業に合流したのだった。ひとまず、夏が待ちきれない。はやく誰かに聞いてほしい。

5日。
久々にNetflixでドラマを観る。「聖域」という大相撲が舞台の作品。デフォルメというかカリカチュアの度合いが強すぎて、大相撲ファンのなかには怒る人もいるだろうし、苦々しい気持ちでいる関係者もあるかもしれないけれど、様々なありえないシーンのありえなさも含めて、シンプルに面白いと思った。社会について考えさせられもする。それとは別にして、大相撲5月場所が盛り上がってほしい。

6日。
街なかにあっけらかんと、全身に蜂蜜を塗りたくって、どこからでも好きに舐めていいですよ、という感じで市民に開かれたコモンズのような場所を体験すると、「徳」みたいなものはつくづく見返りを前提にしていないんだなと感動する。私設の図書館などはその最たる例で、蟻のごとく群がる俺に無償の愛で知識とその歴史への接続詞を用意してくれる。小さくても、そういう精神を小脇に抱えたい。

7日。
現金の持ち合わせがない状態で中華料理店に入り、カードが使えないことを知ったときの緊張感。メニューと睨めっこしながら電卓を叩き、ビールを飲んだら足りるのか、満腹感を得やすい炒飯を頼んで炒め物は一品にしておこうか、などど悩む時間が楽しくて鬱陶しかった。大体の物事は愛しさと切なさと心強さみたいな複雑さもあるけれど、好きと嫌いが同居するようなシンプルな矛盾を孕んでいる。