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ドサクサ日記 1/2-1/8 2023

2日。
おせち料理が苦手だ。酔った大人が大勢で飲み食いする風景が苦痛で、料理まで苦手になったというのもあるけれど(とにかく早く家に帰って正月特番を観たかった)、ほとんどの料理が甘いことも原因のひとつだと思う。しかし、こうした料理が甘いのは、伝統的に甘いということが有り難かったからなのではないかと思う。あっと言う間に社会は豊かになり、バナナが羨望されていた我々の両親の世代とはまったく別の時代を生きている。デジタル機器は5年もすればゴミになるような速度でテクノロジーは進み、大量の砂糖が入った飲料で脳を蹴り上げて我々は働いているのだ。「もういいよ甘みは」とか思いながら、自然派みたいな触れ込みの黒豆のほのかな甘みに「これはいいなぁ」とか感じたりする。水飴を混ぜた日本酒が減ったように、料理も本来の甘味に戻ったら、大好きとか思ったりするのかも。

3日。
紅白歌合戦を盛り上げて、トリクルダウン的に分け前を得ねば一歩も進まないとするなら、文化的にはいかんともし難い。けれども、草の根レベルでは連綿と勝手気ままに面白いことをやっている人たちはたくさんいる。そういう音楽の多くを紅白歌合戦的なものがフックアップしないと経済的に成立しないような枠組みに加担しないというのが、結構大事な姿勢だと俺は思う。反TVや反紅白ではなくて。

4日。
年末から冷蔵庫にあったお餅を開封する。餅は新年らしい顔をしているが、餅がつかれたのは去年のことだ。不思議でならない。大晦日に食べたって物質的には変わりがない。もちろん味も同じだろう。しかし何か、ちょっとした特別さを抱えて、正月にお餅を食べる。そして、ああ正月だなという愚にもつかない感想を言葉にもせずに発し、雑煮を作って食べる。夏の盛りに雑煮を食べたことがない。

5日。
静岡へ。諸々の打ち合わせ。望んでいたのか、巻き込まれているのか、よく分からないのが人生で、そうした場合、心や魂まで含めたところの身体が「なんか嫌だな」という信号を発信することに敏感になることが、本当の護身術だと俺は思っている。そして、そういう信号をちゃんと発する身体を獲得することまでが、それには含まれている。半身で生きる。半身だといつでも逃げ出せる。走り出せもする。

6日。
久々にCold Brainに。年末に放り出した片付けの続きをしつつ、新しく買ったマイクのチェックをする。そのあとは延々とエレピの編集をしているうちに日が暮れてしまった。夕食の約束をしていたので、焼肉屋へ。良い肉とされる肉になればなるほど脂が多くて、食べるのがしんどい。延々とナムルやキムチをつまんでいるほうが自分には合っているのかもしれない。肥育して食べる、なかなか残酷な習慣。

7日。
中学生のときに友人のすすめで借りた大江千里さんの「APOLLO」というアルバムが好きで、当時はテープに録って聞き込み、大人になってからCDを買い直した。あれから随分経って、ジャズピアニストに転身された大江さんのピアノのコンサートを観る機会を持ったのだけれど、本当に楽しそうに演奏する姿が素敵だった。誰しも、年老いていくことからは逃れられない。ミック・ジャガーやポール・マッカートニーのような超人たちの生き方は真似できない。自分らしく老いていくしかない。ただ幸運なのは、音楽は場所さえ自分で見つければ(ベッドルームでだって)、続けてゆけるのだということ。その場所に合わせて変わってゆけるのだということ。もちろん、大江さんのことも真似できない。単身N.Y.に乗り込んだりできない。でも、ステージでの朗らかさは、真似しながら老いていきたいと思う。

8日。
坂本龍一さんの新しいアルバムが素晴らしくてため息をついている。自分もいつか人生を閉じないといけない。親密な誰かとだって、家族とだって、お別れの時間は刻一刻と近づいている。私が私であるすべてにいつかお別れを言って(あるいは言えずに)、死んだことにも気付かずに(恐らく)、眠るように俺はこの世を後にする。自分が世界をどう捉えているのか、そして、それをどう表すことができるのかというのは、表現者にとってとても大事なことだ。小手先の技術だけでなく、生き方や学び方も含めて、丸っと存在そのものが現れてしまう。そして、それをどう聴いたり見たりしているのかという部分においても、私たちの生き方は問われている。自分とは違う解像度で作品を聴いたり見たりする人が世の中にはたくさんいる。というか、それぞれに違う。言語化されていないレベルにも技術がある。