ドサクサ日記 1/1-7 2024
1日。
もうすっかりアラフィフだし朝からお酒を飲むのはやめよう、と思ったけれど、昼にはやっぱり舐めるくらいはいいかなと思ってビールを飲み、ワインを飲み、お節料理を食べ、うたた寝の後に読書をはじめて、俺の元旦しょうもないなぁとか思っていたら、なんだかちょっと揺れてないかなみたいな感じになって、テレビを点けたら石川県が大変なことになっていた。元旦からこうした天災に見舞われるなんてなんてことだろうと暗い気持ちというか、どうすることもできない無力感でいっぱいだ。Xを開いてタイムラインを眺める。俺のようなアカウントがうっかり何かをシェアすると、そのポストがシェアされまくって他の人のタイムラインを埋めてしまう。だから、何かできることがあるかもしれない可能性はXのようなプラットフォームには求めず、じっとしていた。多くの人の安全を祈るしかなかった。
2日。
朝から破壊的なニュース映像に呆然とする。元旦の昼くらいから食べ散らかして、冷蔵庫には餅くらいしかなかった。被災地を思えばそれで十分だろう。家のなかは温かい。東日本大震災の時、俺は神奈川の某体育館で午前3時くらいまで過ごしたが、短時間でも落ち着かなくて心細かった。どうか様々な温かさが被災地に届いてほしい。飲料水や食事や毛布だけでなく、思いのような形のないものも。そして何より、一人でも多くの方の命が助かるように願う。引き続き何もできずにもどかしいが、支援金や義援金のサイトは立ち上がった様子だ。もちろん少額でも寄付はしたほうがいいけれど、被災者に届くスピードにはコントラストがあるので、支援先は焦らずに探したい。複数の支援先に分散する方法もあると思う。と、いろいろ考えていたら羽田空港で飛行機が燃えていた。まったく心が落ち着かない。
3日。
予約していたので『PERFECT DAYS』という映画を観に行った。役所広司を堪能するような映画で、『三匹が斬る!』の千石依頼の役所広司ファンとしては贅沢な時間だった。出てくる渋谷区のトイレが全部綺麗だとか、ツッコミどころがないわけではないけれど、私たちの社会や暮らしの速度というか、ある種の態度にゆっくりと抗うような映画で、一回性の人生を踏みしめながら映画館から帰ってきた。
4日。
京都のミシマ社へ。旅のお供は『ガザとは何か』。パレスチナの問題については、これまでの自分の無関心さを恥ずかしく思う。イスラエルのプロパガンダにヌルッと身を浸して、ハマースが単なるイスラム原理主義テロリストであるというような誤解を疑う機会も持たずに、これまで暮らしてきたことが恥ずかしい。1日2日あれば目を通すことができる文章量だと思うので、時間がある人はぜひ読んでほしい。一方で、これは反ユダヤではないことを強調しておきたい。釈徹宗先生の話では、日本は世界でも珍しく反ユダヤ差別を受けない国なのだという。世界中でユダヤ人が差別を受けてきた歴史も根深い。ちなみにユダヤ人は人種ではない。しかし、政治的に人種のように喧伝された歴史がある。京都では藤原辰史さんにも会っていろいろな話を聞いた。認識を改めることも、パレスチナ支援だと思う。
5日。
新曲の歌の録音。いつもはドラムとベースを録音して、ギターをダビングして、最後に歌やコーラスの録音になる。これが基本的なバンド音楽の録音の手順だと思う。この順番だと、バンドの演奏のムラというか、クセや流れに従わなければいけない。コードも同じで、結構厳しめな和音があてられていても避けながら歌わないといけない。アレンジに対して従属的な立場になるのを避けるために、先に歌う。
6日。
町田康さんと伊藤比呂美さんの対談本を買って読んだのだけれど、まったく話が噛み合っていなくて面白かった。ふたりの立場や考え方がまったく違う。しかし、その違いが深い谷に隔てられ、両岸に分かれて厳しい気持ちになるというわけではなく、ふたりの考え方を行き来して、いろいろなことを考えた。俺はどう捉えているのかしらと自分を問うたりもした。生まれた時には一言も言葉を持っていなかった。感情についても、これが「おもろい」という感情なのか、みたいなことを精密に確認したのではなくて、なんとなく体得というか納得して今に至る。自分が生み出した言葉などひとつもない。自分のなかから湧き出てくるオリジナルの何かなんていうものは俺は幻想だと思っている。この脳だけでなく人生を含む我がボディに通してはじめて、自分らしい響きになる、くらいのものだと考えている。
7日。
被災地に向かった人たちがひとまとめに、あるいは党派的に叩かれているのを見るるとモヤモヤする(一部のアホは除く)。政治家やジャーナリスト、支援のためのNPO、地域にコネクションがあるボランティアたち、そうした人たちが担う役割には意義も意味もあるだろう。政治家は目で見て耳で聞き肌で感じたことを政治活動や議会での活動に活かす。ジャーナリストはもちろん、広く現状や問題を伝えるために仕事をする。関わりのない場所から投げれらる言葉の無責任さ。
相変わらず、俺も含めて、できることは少ない。募金や寄付くらいだろう。ゆえに、真っ先に活躍する人たちを見ると、なんだか自分がものすごくちっぽけなようで不安になる。東日本大震災のときは居ても立ってもいられなくなって、銀行に行ってそれなりの額の寄付をしたけれども、だからと言って解決のための手応えのようなものもなく、抱えた不安はどうにもならなかった。むしろ、支援に対して手応えのようなものを求めていた自分のことが、本当に小さい人間だと感じて凹んだ。本当の支援は見返りや手応えを求めないはずだ。
悩んだり落ち込んだりたけれど、まずはチャリティを始めて、仲間たちがやっている炊き出しに参加して、歌を唄いにいった。すぐにできたわけではなくて、それぞれ準備に時間がかかった。しかし、被災地との関係は今も続いている(と俺は思っている)。また大船渡や宮古や石巻に遊びに行きたいなという気持ちがいつでもある。福島の浜通りに行くとまだ心がザワザワするけれど、お世話になった人たちの側には可愛い子どもたちがいて、これからもずっと見守っていきたいと思う。一緒に笑えたらなと思う。友人がいる熊本とだって、ずっと繋がっていると思う。
能登地震の被災地のために俺たちがこれからできることは山ほどある。もちろん、今できることもある。災害で掻き乱された感情に身を任せずに、信頼できる情報に目を凝らしながら、できることをしたい。
復興という言葉を捕まえるのは難しい。町がまったく元の通りになるわけではない。けれども、新しい繋がりや、関係やコミュニティを作っていくことはできる。それが復興ならば、たとえそれが遠巻きだったとしても、俺たちはその参加者になれる。そう信じている。
けれども、やっぱり関わることができないこともある。細美君が「自分が関わることができる人間には限りがあるんだ」と言っていた。あんなスーパーヒーローみたいな人だって、そういう認識で活動しているんだと思った。ただ、細美君やTOSHI-LOWさんは、差し出す手が太くて強くて温かい。俺の手は細いが、咄嗟に誰かを助けたいと思うときに自分の手の細さを嘆くなんて二の次で、そこにあるべきは気持ちだろう。家族の窮地だと思えば、迷ってる時間も惜しい。
改めて、「私は無力だ」と嘆くことは、ナルシズムの一形態だと思う。人生や生活の問題は待ったなしで迫ってくるけれど、自分の能力について嘆くよりも、現地の方が1日でも早く安堵できるような、温かい布団に伸び伸びと横たわれるような、そういう日が来ることを願って、できることをしようと思う。