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ドサクサ日記 2/26-3/3 2024

26日。
ソロアルバムの立体音響用のミックスデータの整理。今回は初めて後藤正文名義でのリリースになる。インストのコンセプトアルバムになるので、どのくらいの人に届くかはわからないけれど、音楽的に自分のスタジオでできることはやった。ただ、どこまでを「できること」とするのかは難しい。時間が止まるなら延々と何千時間でもミックスをやり直せる。録音物の制作というのは「まあ、このあたりまでかな」と判断するところまで含まれていて、いいところで引き上げられるのも才能のひとつだと思う。もっとも、リリースしてからでも、気に入らなかったらやり直せばいいだけの話なんだけど。大きいレーベルの場合は工場も含めていろいろな人の事情が絡むのでそうはいかない。独立独歩で行えば、好きな時に、何度だって別バージョンを作れる。ただ、制約が生み出すマジックもあるから不思議だ。

27日。
久々に運動をしたら、やっぱり右肩にまつわる動きのあれこれに恐怖感があった。恐怖感だけでなく、実際に痛かったり、望む動作をするには筋力が衰えたりしていて、まるで自分の肩ではないみたいで歯痒い。こういう体験をしている人は、肩に限らずたくさんいるのだろうと思う。いやはや、なってみないと、怪我してみないとわからないことは多い。他人のことはつくづく分からないが、心配はしたい。

28日。
東京の下町まで出てミックス作業開始。夕飯に食べた中華料理が油と塩とアミノ酸でギラギラしていて脳がバキバキに仕上がった。むちゃくちゃ繊細なお出汁の味みたいな料理も好きだが、こういうバキバキ系の中華も美味しい。身体に良いとか悪いとかが気になる年齢になったけれど、身体への負荷とかは端に置いておいて、楽しい気持ちで食べるのが一番健康には良い気がする。うんめぇって言える幸福。

29日。
ミックスの書き出し。ドルビーアトモスとバイノーラルのファイルでは鳴りが違う。やはりアトモスは奥行きの設計がそのまま伝わるので、奥深い響きになって面白い。ソフトの発達と共に、できることはこれからどんどん増えていくと思う。映画館で聴くような立体感の音楽を気軽に楽しめる日もそう遠くはないだろう(AirPodsとかでは気がつかずに体験している人もたくさんいる)。ただ、なんでもできる状況のなかでこその迷子もあるので、作り手には大変な時代がやってくるのかも。そんなことを考えていたら、夜中に古里君の「流水」のビデオが公開になった。ステレオ音源でも、こうして場の空気を上手に録音できることもある。それをもう一度、立体に立ち上げ直すことは難しいけれど、そもそも、あのときの音を立体的に収めようという努力は、モノラルの頃からだってあったに違いない。

3月1日。
永井さんと藤原さんと釜ヶ崎支援機構の小林さんの案内で釜ヶ崎を歩いた。現場からの言葉にはいろいろな気づきがある。「すべての人に正規の雇用があったらいいな」と書くと理想的な言葉に思えるけれど、様々な理由で「明日働けるかわからない」という人がある。もし、自分がそういう状態だったとしたら、職場があることにプレッシャーを感じてしまって、袋小路に追い込まれるかもしれない。多様な働き方、日雇いのような雇用形態にも救われている人たちがいるということなのだ。最低賃金が上がるのは率直に良いことだと思うが、金銭分の高い職能を要求されるだけなら辛い。貨幣価値と能力の交換の間に、福利厚生とか教育のような要素がごっそりの抜け落ちると、私たちは機械や部品のように扱われてしまう。そんな扱いは拒みたいが、俺たちの社会は畑でも田んぼでも、個性を均一に揃えた穀物や野菜を作り、より分け、それを食べているわけだ。家畜に対しても、同じことが言える。そういう意識が人間にも割り当てられるのを思うと恐ろしいが、ほとんど実現しているとも言える。多様性の意味は、何度でも問われるべきだと思う。街歩きの後、釜ヶ崎芸術大学でお茶をした。大阪らしくいろいろな方向にエネルギーが放射していて良かった。校歌の演奏がとても素敵で、終始ニヤニヤしてしまった。

録音した釜大の校歌をお裾分け(許可をいただいてアップロートしています。著作権フリーです)。参加する人、その日によってバージョンが違う。まあ、それは当たり前のことなんだけど、日々に忘れがちなことでもある。

2日。
例えば、意図せずランチに1万円みたいな店に行くと、虚栄心や自尊心や羞恥心や罪悪感などの様々な想いが往来して前後不覚に陥り、なんか緊張した以外の感想が残らないことがある。しかし、今日は贅沢したろかと覚悟を決めて行くとまた違う感想だったりもする。激安店の場合も同じで、意図せず訪れるとなんかその、場末の感じに精神が焼かれて荒廃したりする。準備して行くと楽しい。人心の不思議。

3日。
駅のホームで電車の写真を撮る人を見ると、なんか分かるような分からんような、そういう気持ちになりつつ、最終的に分からんが分かるを寄り切る。ただ、世間的な分からなさを楽しめるのは才能で、自分がやっている音楽だってなんだって、人とはちょっと違う分からなさを追求したり、楽しんだりしているだけなんだと思う。自分なりの角度と楽しみを見つけるのは素敵なことだと思った。