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小説「けむりの対局」・第9話

勝つのは、どっちだ? 升田幸三 vs 人工知能




 エヘレトカゲのジョークだけではない。対局中の升田は、饒舌そのものだった。
「長嶋茂雄くんが巨人軍に入団して五年目のころ、対談をしたことがある。野球の世界では四割打つ者がおらんそうだなとワシが訊いたら、三割打てれば一流の打者ですと彼が答えたので、楽な商売だ、将棋の世界では五割勝って並の棋士、七割以上は勝たんと一流とは呼ばれんと言ってやった。長嶋くんは、恐縮しておったよ」
 テーブルに向かって升田が話すと、野球のファンなのか、打率と勝率の比較のおかしさに春菜と亜里沙が顔を見あわせて笑った。
 その反応に気を良くしたらしく、升田のしゃべりは止まらない。
「ところで、朝比奈くん。ワシがまだ現役で指していたころ、君は何段だった?」
 と、男たちにも話しかけた。
「はい。正棋士の四段になったばかりでした」
「ワシと指したことはあったかな?」
「はい。一局だけ。覇王戦の予選で、先生に教えていただいたことがあります」
「それで、結果はどうだった?」
「はい。私の完敗でした。私は持ち時間をすべて使いきって指したのに、先生はたったの五分を使っただけで私を吹っ飛ばしました。才能の差、実力の違いというものを思い知らされました」
「素直でよろしい。将棋協会の運営に、これからも誠心誠意尽くしなさい」
「はい。お言葉、ありがとうございます」
 会話は続く。
「磯野くんは何段だった?」
「はい。まだ正棋士になる前、錬成会で修業中の二段でした。直接ご指導をいただいたことはありませんが、一度だけ、先生の対局の
記録係を務めたことがあります」
「勉強になったかな?」
「あのう……。そのとき私は腹具合が悪かったのか、オナラをしてしまいました。その臭いが先生にも届いて、カメムシみたいなやつだと笑われてしまいました。いまも忘れられない思い出になっております」
「率直でよろしい。これからは世間に笑われないよう、職務に励みなさい」
「はい。お言葉、ありがとうございます」
 会話は、さらに続く。
「川崎くんは?」
「はい。私も錬成会で修業中の身、まだ三級でした。将棋の勉強のほかに、いろいろな雑用を言いつかっておりました」
「雑用も勉強になったろう?」
「あのう、そのう……。ある日、私は対局中の先生方が脱いだ靴を磨いておりました。靴墨を使って何足もの靴を磨いていたのですが、頭のなかでは詰め将棋を解いておりました。ふと気がつくと、私の左手はゲタをつかみ、右手はゲタに靴墨を塗って磨いておりました。すでにゲタは両方とも真っ黒です。それが升田先生の履き物であることを知ったとき、私の頭のなかは真っ白になり、そのまま下宿へ帰って布団のなかで震えておりました」
 それを聞き、升田は言った。
「あ、思い出した。あれは君がやったのか。おかげでワシは、裸足で歩いて帰るハメになったぞ。だが、正直でよろしい。詰め将棋に夢中になるのは良いことじゃ。これからも、夢中になって仕事をしなさい」
「はい。お言葉、ありがとうございます」
 
 にぎやかなテーブル側とは反対に、パソコンの前に座った早見は、じっと黙って、勝負の画面を見つめている。
 
                          
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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