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長南和泉守さんのこと

お盆ですね。先祖に思いを馳せる機会が増えることと思います。
私の父方の先祖である長南和泉守さんですが、彼の存在は、私にとって特別です。この方が400年前、生きると決めたから、今自分が存在しています。

「なぜ、この仕事をしているのか?」や「自分はどうありたいのか?」といった問いに答えるとき、和泉守さんなしでは話せないくらいの影響力を受けています。

現在、ホームページのリニューアルに取り組んでおり、その過程で先祖の研究史を再び読み返しています。長南和泉守さんは約400年前、房総の里見家に仕えた裏水軍の一員で、地方の豪族(海賊)でした。里見家が没落し、大坂夏の陣で敗れる中、和泉守さんは仲間に頼り、千葉の長南町から浦戸に流れてきました。

この和泉守さんをリーダーとする長南一族は、平安末期から江戸初期までの約500年間、サムライとして細々と生活を続けてきました。しかし、様々な事情で、500年続いたサムライを、浦戸で辞めることとなりました。これは決して簡単な選択ではなかったと思います。細々と続けて来た500年の暖簾を下ろすと決めた訳ですから。

和泉守さんは農民として新たな人生をスタートさせました。寒風沢を開墾し、港や宅地を造成、廻船問屋としての事業を拡大していきました。また、瑞巌寺の雲居禅師の呼びかけで大量の黒松を静岡から取り寄せ、松島湾に植樹するなど、地域に貢献しました。和泉守さんの死後、明治初期まで十二代にわたって続く一族の中には、浦役人などの要職に就いた者が多く記録されています。

一族に関する古文書は、明治初めの寒風沢の火事で焼失してしまったそうですが、瑞巌寺には雲居禅師が書いた和泉守さん宛の賞状が残っているとのことです。また、塩竃市教育委員会が発行した歴史副読本「塩竃の歴史」にも、塩竃を築いた人々として「長南和泉守」さんが登場しています。これらの資料からも、和泉守さんの功績を知ることができます。

お盆のこの日、先祖への感謝の気持ちを込めて手を合わせます。和泉守さんや、流れて来た先祖たちを受け入れた浦戸の皆様に感謝します。

今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。皆様にとっても素敵なお盆休みとなりますように(祈)


ごしゅらんこと

鈴木由美子


寒風澤の中心部・六地蔵。亡き人が向こうの世界でも困らないように、住民たちは、昔から、ここで祈ったはず。



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