御所坊 偲豊庵(Shihouan)

慶長伏見の大震災(1596年)からの有馬温泉の復興を豊臣秀吉が行った。
阪神淡路大震災の復興を祈念して、豊公を偲ぶ庵という事で「偲豊庵」と湯殿を名付けました。
「一杯の茶 どうぞ」というのが茶人の精神であるなら、温泉旅館の主のもてなしは「ひと風呂 どうぞ」ではないかと考えつくりました。


偲豊庵の始まり

ある年の、正月明けに新年の計画として、無方庵 綿貫宏介に相談に行きました。その時に、先生の茶室をモデルに茶室風の湯殿のスケッチを持って行ったのがはじまりです。

その時、先生から松江の不昧公の管田庵という茶室には“御風呂屋”と呼ばれる湯殿があるという事を聞きました。
さっそく機会をつくり松江に行ってきました。

不昧公の茶室としては街中にある明々庵が有名ですが、管田庵は町はずれの山の中にありました。

殿様の遊びというと狩があります。
狩りをして、山から御風呂屋の裏庭から入り、路地を通ると脱衣場があります。
着衣を脱いで戸を開けると、蒸し湯の湯殿があります。そして湯上り後の着衣場があります。
殿様は一度着た服は着ないそうなので、新しい服を着る為の場所が設けられています。その後、待合の空間があり、トイレも設けられています。お茶の用意ができると茶室に移動するのです。

管田庵概要より抜粋

先生は「能登の時国家の屋敷が良い」と言って、下屋の長い下時国家の要素を取り込んで、シンメトリーの浴場のレイアウトを書いてくれました。

下時国家の庭の部分

それを設計士に見せて偲豊庵の浴場づくりが始まりました。

コンセプト

(1)同性が4人が入浴可能な浴槽

殿様は一人で入浴したと思いますが、現在の遊びと言うとゴルフ・・・
一組4人。麻雀も4人。
同性と肌と肌と触れ合いながら入浴するのは、僕は気持ちが悪い。
ある一定の距離感が必要だと考えました。それも4人が同時に入れる大きさが必要と浴槽の大きさを決めました。

お湯は透明な湯を入れたいと考えました。御所坊の金郷泉は半混浴半露天風呂の浴槽です。有馬の金泉を使用しているので金泉の不透明さを利用しているのです。
反対に透明な湯だからこそ楽しめる浴槽を作りたいと考えました。

そこでまず浮かんだのが下諏訪温泉のみなとや旅館の中庭にある浴場。

下諏訪温泉 みなとや旅館のお風呂

みなとや旅館は浴槽の底に小さな石が敷き詰められていますが、黒川温泉の友人の宿にも石が敷き詰められていた事を思い出し、友人に電話を掛けました。
「ゴルフボール大とテニスボール大の石を入れている。」という事を聞きました。その方が気持ちが良いとの事でした。

実際入浴すると気持ちが良いのです。

そしてお湯に入ると、溢れた湯が前面に流れ出すようにしました。

(2)水琴窟のBGM

浴場と待合の間に坪庭のスペースがあります。ここにBGMとして水琴窟を仕込みたいと考えました。
水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考案したと言われています。

日本水琴窟フォーラムより

愛知県日進市の水琴窟の研究家として名高い中野之也氏を訪ねて、実際の氏の作った水琴窟を見せてもらって「水琴窟を複数作って、メロディーの様に鳴るようにしたい。」と考えている事を伝えました。

水琴窟は地中に大きなカメを逆さに埋めて、底になる部分に水を溜める。
上部のカメの底になっていた部分に、小さな穴をあける。
その穴から水滴が落ちると、響いて音が鳴る仕組みです。

しかしカメの大きさやカメの固さ、カメの周りの反響効果をもたらす砂利などで音が代わってきます。

中野氏の指導の下、大きさの違うカメを5つ、坪庭の部分に仕込みました。
また底の水の部分を調整できるようにして、実際音を鳴らして最適な水深を決められるようにしました。

音を響かす砂利は、阪神・淡路大震災で被災を受けた有馬の念仏寺の屋根瓦をもらってきました。お寺の瓦は大きいので反響の素材としては良いだろうという事と、念仏寺は秀吉の正室、オネさんが滞在した事で知られている寺だからです。

問題はメロディーの様に鳴らす事。

水琴窟は手水を使用した時に、流れる水によって鳴らすようにしています。
しかし浴場のBGMとして使いたいので、水をアトランダムにごく少量流し続けないといけません。

そこで困った時の山田さん頼み。
山田さんは大手家電の修理の技術者ですが、一般の修理の技術者を指導する立場で「人間がつくったものは、なんでも直せる!」と豪語している人です。
漢詩をつくれる先生もすごいと思うけど、回路を書ける山田さんもすごいと思うのです。

山田さんはバルブを制御する回路を作成し、水をごく少量流す為にエアコンの極細のパイプを使って、5つのカメに水をアトランダムで流すシステムを作り上げてくれました。

たかが水滴ですが、耳を澄ますと20mぐらい離れた所でも聞こえます。
その為に、浴槽の水や池の水などの音もしないように調整しました。

だからお子様は基本的に使用不可なのです。

ビルゲイツが欲しいと言ってきた!

ある時、中野氏から「ビルゲイツが御所坊さんの水琴窟の図面が欲しいと言ってきた。どうします?」という連絡があった。

あのビルゲイツが自宅に御所坊の偲豊庵の水琴窟のシステムをつくるならば、これほど面白いことはない。
すぐに快諾した。

そして、それまでMacを使用していたのだが、Windowsを使うようになった。
しかし実際、ビルゲイツの家に水琴窟があるかどうかは確かめていない。(笑)

(3)凝った湯文が欲しい!

湯文(ゆぶみ)とは、コトバンクから引用すると・・・
〘名〙
① 温泉の効能入浴についての注意などを書いた文。
太閤記(1625)一五「有馬中務卿法印は、有馬の池坊て、湯文を説廻り、有馬の湯のをことごとしく云立候し」
湯殿始(ゆどのはじめ)に用いる祈祷の書きつけ。※玉葉‐仁安二年(1167)一一月九日「置物棚上 虎頭一、犀角一置、御湯書、等撤レ之、掃二除之一、如レ本取置」

先生が御所坊の大浴場の金郷泉に御所坊湯文をつくって下さった、しかし偲豊庵は完全に“遊び”の空間。偲豊庵用に先生得意の裏読みのできる漢詩の湯文をつくってほしいと頼みました。

信楽焼の谷清右衛門さんを訪ねた帰りの車の中でのことでした。

谷さんは、先生がポルトガルから帰国してまず、茶室をつくる事になり、茶室の屋根の上に大きな陶器の鉢をかぶせたいと考えて巡り合ったといいます。
今回は谷さんに登り窯で使用する台座をもらいに来たのでした。
その時頂いた台座は、偲豊庵のトイレの紙を置く台と坪庭の正面の花台に使用しています。

話は漢詩の湯文制作に戻ります。

先生は「風呂に関する漢字の熟語を言ってみろ」と言いながら、先生も色々口に出し始めた。
つまり“浴場”という言葉が浮かぶと、同じ発音で“欲情”が浮かぶ。
そして“欲情促進”という四文字熟語をつくり、それを“浴浄即神”という言葉に置き換えるのだ。浴して浄すれば、即ち神・・・・

先生の思考方法を垣間見た時でした。

(4)美女の黒髪と金の針

“タナゴ大名”という言葉があります。
タナゴ釣りは江戸時代は大名の釣りと言われ、金屏風を立てて、美女の黒髪を糸にして、その先に金の釣り針を付けて釣るという事を知った。

ちょうどその頃、近くの池に日本バラタナゴが生息しているという事を知り、今や絶滅の危機に瀕している日本バラタナゴを偲豊庵の池で飼おうと考えました。

しかしタナゴは他の魚と違って、淡水の二枚貝の中に卵を産み付けるという。二枚貝が生息できるきれいな水が必要になる。
そこで池にろ過機を仕込み、上流から水を流せるようにした。
あわよくば蛍も生息させたいと考えて試していたが結局駄目でした。

最初はタナゴだと思っていたのが、他の魚も混じっていて今や雑多な状態になってしまいました。

(5)温泉露天風呂

偲豊庵は透明な湯に固守していましたが、温泉のタンクを屋上に設置したことにより、配管させすれば御所坊の館内のどこにでも温泉を引くことが出来るようになりました。

そこで、外に出る扉を新たに設けて温泉の浴槽を加えました。
近くの休業中の旅館から見えるのではないかと簾を掛けれるようにしていますが、保健所の見解では「今は必要ない。」という事なので、いつでもかけられるようにしています。

無い方が夜空を眺めてもらえると思っています。

(6)偲豊庵の使い方

宿屋の主人には色々な考え方がある。自宅をつくるより風呂をつくろうと思ってつくったのが偲豊庵です。つまり自分の為の風呂で、そしてその遊びを理解してくれる人に入ってもらいたいと考えました。

そこで最初は、このお客様に入ってもらいたいと決めた方に、こっそりと「よろしければどうぞご利用ください。」と案内していました。
つまり、ひと風呂どうぞ!の精神です。

御所坊の対岸から偲豊庵のすぐ裏を通るバイパス建設が始まりました。静寂だからこそ聞こえる、ビルゲイツが所望した水琴窟も役に立たないようになってしまいます。
そこで天楽タイプの客室をご利用の方に案内して、ご利用頂くようにしました。
しかし色々なお客さんが利用されると、色々な評価や口コミが寄せられます。
「温泉でなかった」「案内がわかりづらかった」「シャワーがなかった」等々。

20年以上使用していると、木製の浴槽も傷んできました。そこでコロナ期間中を利用して修繕を行い、「修理工事中」という事で、HPからも存在を消すようにしました。

そして御所坊の歴史上初めての露天風呂を併設しました。

(7)考槃居 スパースイートルーム

寝床夢と書いて御所坊とも読む
御所坊のテーマソングの漢詩をつくってもらったのが綿貫先生との最初の仕事。

そしてわしの感覚でやるのなら手伝ってやるわ!と言われて、引き受けてもらった。

その漢詩を元に翠巒御坊は漢字一字で山の形状を表す字、雲山御坊は雲、聴水御坊は水の流れを表す部屋名を付けた。

また揚々として過ごすという事で、風呂は揚々殿などと付け、先生が「いつでも言ったら泊まれる部屋を用意しろ」と言われた。

その部屋を漢詩の最後の言葉 考槃境・・・山と山とが織りなして渓流が流れている、水墨画に出てくるみたいな場所で、仙人が瞑想にふけった場所

そこから考槃居という部屋名を付けた。

コロナの期間中、各種補助金を活用して、先生を看取った時に、こんな部屋があったら良いなという事で501号室をつくった。

一番、コロナや補助金がないとできなかったことが、旧厨房の床の補強と、その上の補強。この事で震災の影響で歪んでいた考槃居や53.54.55をさわれるようになった。

まわりまわって、先生との最初の部屋が出来るという事になった。

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