見出し画像

タンゴ・葉山・遊散歩(13)

「さ よ う な ら」
「気 を つ け て」
ゆるやかなやりとりをする声がした
60代前半と思しき女性が拝殿横の建物から表れ
神社の階段を降りていく

私とタンゴは今その階段を登って拝殿に向き合ったばかり
ゆっくりした足取りで帰っていく女性の後ろ姿を見送ってから
私は拝殿に向きなおり手を合わせた
タンゴにもおすわりを命じる
タンゴはいつものように横座りで私の顔を見上げている

私が拝殿に手を合わせてお辞儀をした時
「二礼二拍手一礼」
先ほど階段を降りて行った女性の表れた建物からしわがれた声がして
腰の曲がった老婆が姿を表した
90才は超えているだろう
タンゴはウワンと太い声で一声吠えたが
老婆が近づいてくるとあわてて私の背後に隠れてしまった

老婆は曲がった腰を精いっぱい伸ばして深いお辞儀を二度
それから胸の高さで右手を引いて二度両手を打ち合わせ
最後にまた一度深いお辞儀をした
そして私を見て薄く笑ったようだった
タンゴは黙ってしまっている
それどころかリードを強く引っ張って
なんとかこの場を逃げ出そうとあがいている

「ああ、ありがとうございます」
タンゴのリードを引き戻しながら
私の声も少し震えていたが
老婆の動作を真似て二礼二拍手一礼をし
拝殿に背を向けた

「あ わ て な く て も 大 丈 夫 よ」
しわがれた声がゆっくり追いすがってきたが
私もタンゴも逃げるように階段を駆け降りた
タンゴの低い背中に光るものが見え
私は自分の背中に何かが乗っかっているように感じた

最後の階段に足をかけたまま思い切って振り向くと
拝殿から氷のように冷たい疾風が吹き降ってきた
タンゴはリードを強く引くが
私はその場に立ち尽くして拝殿を見あげた
老婆の姿はもうどこにもなかった

ほんの一瞬で
腰の曲がった老婆が消えてしまっていた
それどころか人がいた気配が感じられなかった
タンゴが私を責めるように激しく何度も吠えた
激しいが哭いているような声だった


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?