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「タンゴ・葉山・遊散歩」(4)


10月1日(金)に緊急事態宣言が解除されたが、午前中の葉山町は雨と強い風が吹き荒れていたので、朝の散歩は見合わせた。
タンゴの意志確認はしていない。
タンゴの意志確認はしていないが、午前中のタンゴのトイレ周辺の様子から、タンゴの気持ちは想像できる。
いつもより濡れる範囲の広いタンゴのトイレ、その周辺への撒き散らしは、明らかに抗議の意志表示だったに違いないが、まあ仕方がない。

数日前から「大型で非常に強い台風16号が1日に関東地方に接近する」と報道されていたし、葉山町でも警戒警報が発令されたので、犬の散歩だけでなく、食材の買い出しに行くのさえ多くの家庭で控えて、外出する人の姿は稀だったに違いない。
夕方には雨は上がっていたが、道が濡れていたので、濡れた道路歩きを嫌うタンゴに忖度して(短足のミニチュアシュナウザーであるタンゴは濡れた路面を歩くと、すぐにお腹が濡れ雑巾になってしまう。だから濡れた路面を数歩歩くと全力で引き返そうとする)夕方の散歩も実施せず、家の中で「噛み噛みボール」遊びをした。
私の古い靴下の中にタンゴが噛んで壊したおもちゃの残骸を詰めて、タンゴ用の「噛み噛みボール」を妻が作っていた。それを廊下の端まで投げると、タンゴが突進、咥えたタンゴがそれを自分のネグラに持ち込む。それを取り上げてまた投げる。タンゴ突進、ハウスへ持ち込む。何度もそれを繰り返すだけの単調な遊びだが、タンゴが飽きるまで繰り返した。
いや正確ではない、私が飽きるまで繰り返した、が正しい。
それでもその夜の大きいほうは、きちんとトイレにしてくれていた。

続く2日(土)、3日(日)は台風一過の晴天に恵まれ、葉山の路上に車の列ができ、ジョギングをする人や歩行者の姿もにわかに増えた。
そんな週末の一色海岸にタンゴを散歩に連れ出した。

8月以降の一色海岸の人出は週末でもごく少なかったが、この二日間は多くの人で賑わった。目立ったのは小学生ぐらいの子供を連れた親子の姿だった。
水際で側転を繰り返す3人の小学生がいた。2人のお姉ちゃんと小柄だけど活発そうな男の子だ。皆上手に飽きることなく何度も何度も足を宙に回転させていた。突然、男の子が掌と膝を砂につけたかと思うと、その姿勢で犬のように走り回り出した。2人のお姉ちゃんたちもすぐに同じ姿勢で追いかけた。近くで日光浴をする母親らしい人が、穏やかな笑顔でそんな子供たちを見つめていた。
海岸に横になって日光浴をする人の中には外国人の姿も目立った。
海上には、たくさんのパドルボードが気持ちよさそうに行き交っていた。沿岸では台風が残してくれたうねりに乗ってサーフィンする人や、釣竿を持って波打ち際に立つ人の姿も見られた。

それぞれの人が、自制や何らかの抑圧からいっとき解放されて、暖かな日差しを楽しんでいる海辺に出ると、タンゴも興奮して走り回りたがった。
太く大きなエネルギーを感じさせる陽光、一定のリズムで繰り返す波音、自然は、底知れずどこまでも懐が深い。
タンゴも自然に抱かれて、どこまでも遊んでいたいのだ。自分の足首がすぐに痛むことも忘れて、タンゴに引かれるまま走り出した・・・が、やはり足首が痛みだして長く走っていることはできなかった。タンゴはもっと水際を走っていたいようだったが、ゆっくりと海辺の景色を脳裏に刻んで海岸を後にした。

高村光太郎が、その母の死に際して読んだ詩がある。

死ねば死にきり
自然は水際立っている

吉本隆明(吉本ばななのお父さん、詩人・評論家)が、この言葉を晩年に何度も引用して自分の死生観のようなことを書いていた。

その吉本隆明の書いたものから、私が受け取って自分なりに膨らませた言葉はこんなことだ。
<人間が考えることは、いつの時代になっても限られた制約の中でしか考えられないが、自然は違う。自然は見事にあらゆることをあるがままに秩序づけている。因果関係から考えるのでなく、自然が因果関係そのものなのだ。だから、我々人間は自然のまま、己のうちなる自然の命ずるままに生きるしかないのだ>


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