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小川糸『あつあつを召し上がれ』

こんばんは。
ゴロ助です。

読書も趣味の一つなので、
本の感想や考察を書いてみようと思います。

今回読んだのは、

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小川糸さんの『あつあつを召し上がれ』です。

簡単に言いますと、お味噌汁やコロッケ、きりたんぽなどの美味しいご飯がテーマとなって描かれた短編集です。

本作はご飯の描写が本当に素晴らしくて、読んでいるだけで、その味や香り、熱気を感じます。
試しに「親父のぶたばら飯」というお話の、中華屋さんのシュウマイを食べた一文を引用しますね。

「アラびき肉のそれぞれに濃厚な肉汁がぎゅっと詰まって、口の中で爆竹のように炸裂する。」

もうこの文章だけで、私の口の中にぐわっとシュウマイの味が広がるのです。熱々で、肉汁がたっぷりのシュウマイが口に入ってきて、
咄嗟に傍の水を飲みます。出されてしばらく経った水は少し温いけれど、おかげで口の中の熱さが緩和されて、シュウマイの味がよく分かります。少し汚れた中華屋ですが、人はよく入っていて、話し声や食器の当たる音でとても賑やかです。目の前の恋人も美味しそうにシュウマイを頬張っていて…。
といつの間にか、私は中華屋に居て、大事な人と食事をしているのです。
味わいから、その場の雰囲気、目の前にいる人へと、どんどん視点が広がっていき、いつの間にか物語に飲み込まれています。まさに擬似食事体験が出来るのです。そのくらい、巧妙な文章です。

本作のこの、美味しそうな食事の描写だけでも読んでいて充分に楽しいのですが、もっと奥底に隠されたテーマについても考えてみます。

私はご飯というのは表面上のテーマで、奥底に「何かの終わり」や「死」というテーマも絡められていると感じました。

「さよなら松茸」では別れる前に旅行をする恋人達の最後の食事、「こーちゃんのおみそ汁」では嫁に行く前に父に、亡き母から作り方を教わった味噌汁を作る娘、「ポルクの晩餐」では心中前にご馳走を食べる恋人達が描かれています。

小川糸さんが「物事の終わり」や「死」と食事を結びつけたのは、食事が単なる生命活動のために必要なものではなく、思い出と強く繋がるものということを実感させたかったからだと考えます。

家族や恋人、友人との食事は、何気無いようで、心の片隅に深く残っているものなのです。
誰かとご飯を食べたり、誰かのためにご飯を作ったり、作って貰ったりすることって、とても大事なことです。そういう事は「死」や「別れ」を通すと、よりはっきり見えてくるものだと思います。


本作を読んだ時、私は亡き祖父の作るステーキ丼を思い出しました。

底の浅い、横長のお皿に炊きたてのご飯を敷き詰めて、近所のスーパーで買ってきた安い肉をバーナーで炙り、一口サイズに切って雑に乗せ、ソースのたっぷりかかったステーキ丼。
手も込んでないし、安い食材で、見た目もそんなに良くないけれど、何故かスルスルっと食べれたのです。
物凄く美味しい訳でもない、寧ろ普通なのだけれど祖父がいつも隣で「美味しいやろ、爺の作るステーキ丼は美味いやろ」と口煩く言うので、「美味しい、美味しい」と言い聞かせるようにして食べていました。

ある程度成長してからは、そんなに会わなくもなり、ステーキ丼を食べる事も無くなりました。多分最後に食べたのは、12歳くらいだったと思います。

去年、何度か祖父の家に行った時も、「ステーキ丼、出来るで」とよく言われていたけれど、すぐに帰るからと断って、結局食べませんでした。


その後、祖父はあっさりと亡くなってしまいます。

今思えば、食べておけば良かったです。
他所で、「ステーキ丼」と聞く度に、あの平べったいお皿に入れられた、陳腐だけれど、二度と食べられないステーキ丼が思い浮かびます。

生きていた時には思いもしなかったし、気付く事が出来なかったけれど、祖父にご飯を作って貰えて、私は幸せでした。そして一緒に食事をする時間をもっと大切にするべきだったと思います。

ご飯を作って貰ったり、作ったり、一緒に食事をするのって、何時でも出来る気がして、蔑ろにしてしまうけれど、そうじゃないのですね。限りがある、終わりがあるものなんです。


そういう大事なことって、死とか別れとか、失ってから初めて気付いてしまう事が多いと思うのですけれども、本作はそれを気付かせてくれるのが、良いですね。

読み終わった後に何かを得れたり、人の事をより大切に思える本は素敵です。

特にオチ無いのですが、
眠いので終わりますね〜
おやすみ〜


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